やがて陳腐化するという前提で学ばせるということ

市場経済において、スペックが明確化可能なものはヒト・モノ問わず全て陳腐化することになります。

そうなると、日々せっせと子ども達にプレッシャーをかけて身につけさせている、現在の学校教育において重視されている「学力」というものは、確実にその範疇に入る(センター試験や私大入試試験など、マークシート式の試験を考えてもらえば、これが如何に明確にスペック表示できるものかお分かりいただけるでしょう。)わけです。

ですから、その「それ自体は確実に市場において陳腐化して、それ自体はさして助けにならないもの」を今扱っているという事を自覚した上で、我々大人はこれに取り組まねばなりません。それはつまりどういうことか?現行のような子どものリソース(時間や体力)の多くをこれに割かせるようなやり方でやっていたのではいけないということ。一言で言えば「チャッチャと片付け」なければいけないと言うことです。

サイト理念でも語っているように、「道具」として「素材」としての基礎学力には非常に重要な意義があります。しかしその意義は、あくまで「手段」としての意義だということです。食事に例えれば、道具と素材を準備しなければ、当然御飯は食べられません。しかし、あまりに多くの時間をこれに取られてしまっては、調理も摂取もままなりません。これでは生きていかれません。まして、おいしくて、食べやすく、食事の時間が素晴らしいものになるような「料理」に仕上げようと思えば、かなりの時間をそのために残しておかなければなりません。もちろん、のんびりと横になって、しっかり「消化」するための時間も必要です。

少なくとも大人は、このことに自覚的でなければならないと思うのです。

 

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