夏の思い出?

部下達を、早朝から深夜まで徹底して働かせる。

今が勝負!結果を出せ!数字をだせなきゃ何にも残らないぞ!激励したり、時には厳しく叱ったり、如何にして彼らに自発的に無理をさせるかが重要だ。

僕は彼らに、短期間のうちに、必要最低限の知識や技術を詰め込み、他社との競争に勝たしめ、結果を残させねばならない。しかし追い込みすぎて壊してしまっては会社の評価が下がる。彼らに対する長期的な育成計画などありえない。約半年後の結果が全てだからだ。その後のことは申し訳ないが僕は知らない。

「部下」を「生徒」、「働かせる」を「勉強させる」にかえてもらえば、僕のかつての仕事です。 … どこのブラック企業かと思ったでしょ?(笑)

でもね、「結果が出た」子には案外悪くない思い出だったりするんですよ。自信の源泉になったり。いや、ほんとに。こわいですねー。  労働観をかえるなら、まず勉強観から。。。

魔王あるいはお代官様としてのお勉強

人々を不安と恐怖で縛り、服従を強要し、 従わないものは迫害し、容赦なく罰をあたえ、 従順であっても能力不足とされたものはバンバン切り捨てる。 ゆえに、従うものもまた常に不安を免れ得ない。 それは従順かつ評価の高いものにとってさえ同じである。

まるでゲームやファンタジー小説における「魔王」のような、 はたまたクラシカルな時代劇における「お代官様」のような存在。

子ども達にとって今、「勉強」はこういう存在。※ もちろん本来はそうじゃなかったはず。でも今は「勉強魔王様」で「お勉強様」 こいつと上手に付き合っていけというのは、なかなかハードな要求だ。

大人になって「お勉強様」から解放されたとたん「学び」の楽しさに目覚めるのは偶然じゃない。(誰かがついに目覚めないとして、それもやはり偶然じゃない。)

僕は、大人として、親として、子ども達に「魔王様に気に入られるようにがんばりなさい」とは言いたくない。絶対に言いたくない。 でも「勉強なんてしなくていい」ではダメだ。それでは、成長前につぶされてしまう。

必要な力を身につけ、「お勉強様」に使われるのでなく、それを「手段」としてこき使うようになるその日まで、子ども達を「お勉強様」から守り育てねばならない。

対抗できる力がつくまで、逆に相手を組み伏せる力がつくまで、「乗り切る」術を、そのための武器を、防具を、用意したい。

 

※そうじゃない学校、そうじゃない教室、そうさせない先生の存在は否定しないが、「普通」じゃない。

ミラーニューロンによる共感

我々の脳は、例えば目の前の他人が身体的な苦痛を与えられているとき、またはそれを和らげるような行為をうけているとき、実際にそれを感じているのだという話を聞きました。それを自覚しないのは、自らの触覚からの情報が「それは、あなた自身に起こった事ではないよ。他人のことだよ。」という情報を伝えてくる事で遮断されているからであって、怪我や、麻酔による一時的な感覚の喪失などにより、その上書き情報が断たれれば、上記の苦痛や緩和を自らの身に起こったもののように自覚することが出来るのだそうです。

こんな話を聴くと、情報化の進展による、動画コンテンツの急速な増加が、我々の共感にもたらす可能性の巨大さを考えずには要られませんね。遥か離れた場所で起こっている悲しい出来事について、動画を通して、まさに自身に起こった事のように共感できるならば、それはとてつもなく大きな変化を生み出しうるのではないでしょうか。

 

やがて陳腐化するという前提で学ばせるということ

市場経済において、スペックが明確化可能なものはヒト・モノ問わず全て陳腐化することになります。

そうなると、日々せっせと子ども達にプレッシャーをかけて身につけさせている、現在の学校教育において重視されている「学力」というものは、確実にその範疇に入る(センター試験や私大入試試験など、マークシート式の試験を考えてもらえば、これが如何に明確にスペック表示できるものかお分かりいただけるでしょう。)わけです。

ですから、その「それ自体は確実に市場において陳腐化して、それ自体はさして助けにならないもの」を今扱っているという事を自覚した上で、我々大人はこれに取り組まねばなりません。それはつまりどういうことか?現行のような子どものリソース(時間や体力)の多くをこれに割かせるようなやり方でやっていたのではいけないということ。一言で言えば「チャッチャと片付け」なければいけないと言うことです。

サイト理念でも語っているように、「道具」として「素材」としての基礎学力には非常に重要な意義があります。しかしその意義は、あくまで「手段」としての意義だということです。食事に例えれば、道具と素材を準備しなければ、当然御飯は食べられません。しかし、あまりに多くの時間をこれに取られてしまっては、調理も摂取もままなりません。これでは生きていかれません。まして、おいしくて、食べやすく、食事の時間が素晴らしいものになるような「料理」に仕上げようと思えば、かなりの時間をそのために残しておかなければなりません。もちろん、のんびりと横になって、しっかり「消化」するための時間も必要です。

少なくとも大人は、このことに自覚的でなければならないと思うのです。

 

読書量急増中

最近、読書量が急増しています。じっくりと考えたい事があって、時間をとって、うーーーーん、と考え込むのですが、そうすると、気になること(本題の考えるために必要そうなものも、そうでないものも)が一杯出てきて、そうなると関係のありそうなツィートやニュースが眼に留まりやすくなるし、書店へ行っても気になる本が多くなる。というので、まず1段階目の読書量増が起こる。

で、それらをせっせと読み漁って、ひと段落つくと、考えたい事がさらに増えて、読みたい本もそれにあわせて・・・と、キリがないのですが、一方で、最初に考えていた事についても、ちゃんとそれなりに深まっていっているようです。もし途中で最初のテーマについて考えなくなっていくなら、それはきっとそんなに重要じゃないテーマだったか、優先順位が下がってしまったか、なので、それはそれで構わないのかと。

いずれにしても「もう少し速く読めたらいいのに」と思う今日この頃であります。

アメーバピグ 15歳以下の利用可能機能を大幅制限

小中学生によるアカウント詐取事件などが続発していたアメーバピグにおいて、ついに、15歳以下のユーザーへの機能制限が発表されました。(実施は4月24日からの予定)

ざっくりとまとめると、15歳以下のユーザーは、他のユーザーとの会話やアイテムのやりとり、互いの部屋への行き来など、コミュニケーション関連の機能が全て使用できなくなります。自分の部屋や庭で出来る機能が残されているとはいえ、実質的には15歳以下ユーザーのゲームからの排除と言えるでしょう。

アメーバ スタッフブログの該当記事

http://ameblo.jp/staff/entry-11190844466.html

発表を行ったスタッフブログ記事に、膨大な量の反発コメントがつくなど、今後のソーシャルゲームと未成年者の関わりを考える上で、展開を注視せねばならない事例だと思います。

とにかく「具体的課題」に

「もっと勉強しなさい」が、口癖化している人も多いと思いますが、改めて言われる側になって想像すると(あるいは思い出すと(笑))、何をするのやらさっぱりですよね。

もし「クリアしなさい」と、ひたすら連呼されるゲームがあったら、クリアまで到達できる人は殆どいないでしょう。

「何を」「いつまでに」「どれだけ」というのは、課題においてもやはり必須の情報です。「がんばる・がんばれ」と言う言葉は、その意味では大変安易で不親切なものだということを、時々振り返ってみるべきでしょう。

「リアル・フリー」読了

デジタル・ヴァーチャルじゃなくても、リアル事業でもフリー化可能だというお話。

読みながら膨らんできた「リアル・フリー学習塾」妄想、もとい構想について、少し考えてたり調べたりしてみました。

例えばフランチャイズの学習塾(小学生向けだと学研とか公文など)のロイヤルティ収益比の高さなどにはちょっと驚きました。が、教材もらって、看板も借りて、ですからね。ゼロからの学習塾立ち上げを経験した身からいうと、「ブランドを買う・借りる」というのは相当虫のイイ発想でして、それぐらい取られて当然の話、ではあります。

しかし、FCはなんでもそうですが、「本部が儲けすぎ」感があるのは事実。本部が負担しているのは要するに、教材提供と集客支援(CM)ですから、これのコストをズンズンズンと圧縮して、先生の仕事もギリギリまでシステム任せにできる状態を作れれば・・・。

うーん、あり得るのかもしれない。以前の投稿で書いたように、家計に占める教育費の割合はかなりのものになっているので、こいつを何とかして、生活全般の充実に振り向けられれば・・・。いつか真剣に考えてみたい課題です。

2種類の会話

レポート・トークとラポール・トーク、いずれも会話をさす言葉ですが、前者が報告、つまり用件を端的に、効果的に伝える事を目的とした会話であるのに対して、後者は、会話の「過程」を重視し、リラックスした時間を共有する事を主目的とした会話です。

何かと速度が求められる昨今にあって、家庭内での会話まで、ついつい、レポート・トーク的になってしまっていませんか。夫婦間では、よくこのトーク観の違いによる齟齬が見られますが、親子間でも、こと勉強の話題になると、レポート・トーク的になってしまいがちなのではないのでしょうか。ふたつのキーワードを頭のどこかにおいておくだけでも、会話の雰囲気が変わってくるかもしれませんね。

速度と到達レベル

子供の学習について「おくれ」の不安は常に保護者に付きまとう所ですが、ある機関の観測では、学習速度と最終的な到達レベルとの間には相関が無いらしいという結果が出ています。

「らしい」レベルの話ではありますが、親の「不安」状態が子供に与える悪影響はどうやら「確実」レベルで判明しております。となれば、「かもしれない」レベルの話(学習速度・進度)に振り回されずに、「確実に悪影響をあたえるほう」(親の不安状態)の対策に、より多くのエネルギーを割くのが吉でありますなぁ^^