子どもとゲームで悩んだら考えてみてほしいこと:その3

ゲームと暴力犯罪に、因果関係はありません。

暴力的なゲームをしたら子どもが犯罪者になってしまう!的な妄言が、いつまでたっても無くなりませんが、過去にハーバード大学で150万ドルの予算をかけて行われた大規模研究があり、その中には「因果関係がある!」と主張した様々な論文の検証も含まれていましたが、それらの論文は全て妥当性を否定されています。研究全体の結論としては「少なくとも、因果関係があるとは言えない。むしろ抑止的に機能している面すらある」というものでした。
前回も書きましたが、この手のゲーム危険論が繰り返し繰り返しメディアに登場するのは、「ウケるから」、つまり不安に駆られた皆さんがそういう情報を「見るから」です。重要だからでも、事実だからでもありません。

不安を煽る情報と、そうでない情報では、確実に前者がビューを稼ぐことができます。それがわかっているので、収益を意識するメディアは必然的に前者をばらまくことになります。他人の不安こそが彼らの「飯の種」なのですから。
銃や剣を構えて、画面上に現れるモンスターや人を、撃ちまくる、斬りまくる、
こんなゲームに熱中している姿を見て不安になる気持ちはわかります。

が、それを煽って利用しようとする情報に踊らされないことが肝心です。

まぁ、そもそも、ハーバードでの研究結果など持ち出すまでもなく、これだけゲームが普及して、多くの、というか大半の子ども達がリアルな暴力描写のゲームに日常的に触れて過ごし、ゲームで遊ぶ人々の平均年齢が40代に達した現在、もしも、ゲームと暴力犯罪に因果関係なんてものが存在していたら、とっくに我々の社会は崩壊しています。

あまり知られていませんが、1983年のファミリーコンピューター発売以後、今日に至るまで、少年凶悪犯罪(殺人・強姦など)の件数が全体としては一貫して顕著な低下傾向にあることも、ぜひ知っておいていただきたい情報です。

(短期的には、ググーッと上がる時期もあって、そこだけ取り出して利用されるケースも多いです。絶対わかっててやってるだろ!と突っ込みたくなる)

とはいえ、感情とは厄介なもの。不安を煽る情報に触れてしまえば、煽られないようにコントロールすることは困難かもしれません。

ですから、一番手っ取り早いのはおそらく、テレビを見る時間、ネットをうろつく時間を、「大人が」減らし、いい加減な情報に出来るだけ触れないようにすることです。

えー、今から、とても失礼なことを言います。
でも、とてもとても大事なことなので、やっぱり書きます。
僕が嫌われることになっても仕方ない、でも、できれば怒らないで聞いてください;;

そのような情報を鵜呑みにして不安に駆られるということ自体が、大変失礼ながら、あなた自身のメディア・リテラシーの低さを示していると言えるのです。

そのツケを、大事なお子さんに回してしまわないためにも、それを自覚した上で、情報に接する、あるいは触れない、ようにしましょう。

・不安を煽る見出しを発見する
・大事な情報だと思って読む(観る)
・不安に駆られて精神が不安定に
・家族にその悪影響が及ぶ一方で、何も解決しない

こうなるくらいなら、いっそ全く情報に触れないほうが絶対にマシですよね。
せめて2番目を「読まない(観ない)」にできれば随分違います。

無駄に不安にならないこと、そんな不安に子ども(家族)を巻き込まないこと。
あれ、今日も結論は同じ、ということになりました(笑)

次回は、ゲームへの執着(内容そのものでなく)がもたらす問題行動、に触れたいと思います。

【子どもとゲームで悩んだら考えてみてほしいこと:その2】

池田です。子どもとゲームで悩むお母さん(お父さん)がラクになる話を、と思って書き始めましたが、2回目にして早速、あまりラクにならない話かも・・・。でも、最終的にラクになるためのお話なんでご容赦を。

ゲームに関する一番の問題は何でしょう?それをきちんと知っておきましょう

子どもとゲームで悩むお母さんからよく聞く不安・問題といえば、

(1)人格形成上の悪影響からの非行・犯罪
(2)過度の執着からの問題行動
(3)長時間プレイからの生活の乱れ

このあたりがベスト3というところだと思います。
そのままメディアでよくみる内容・順番なのですが、
意図的なのかどうか、このリストからは最も重要かつ深刻なものが抜けおちています。

それは、

ゲームを挟んで対立することによる親子関係の悪化

です。

(1)-(3)に対する不安が、感情的な言葉のやり取りを生み、
感情的な言葉のやり取りが親子関係の悪化を招き、日々の生活に影を落とし、
結果的に、(1)-(3)の問題を生じやすく、かつ、解消しにくくさえしてしまいます。

不安→対立→状況悪化→不安悪化→対立悪化→状況さらに悪化

こんな最悪のループに陥らないために、
お子さんとゲームについて、不安や悩みを抱えていればこそ、
その生の感情をお子さんにぶつけることをこそ、まずやめなければならないのです。

メディアを通じて、(1)-(3)に関する情報を繰り返し聞かされるうちに、
それらの情報が重要かつ信ぴょう性の高いものだと錯覚してしまいやすいのですが、
メディアがそれらのネタを繰り返し使うのは、重要だから、ではありません。
単にそれが手堅くウケる(多くの人の注目を集めやすい)ネタだからでしかありません。

ウケ狙いの煽り情報に踊らされてはいけません。

あなたとお子さんが、ゲームを挟んで対立関係にある限り、
あなたの不安や悩みは、悪化こそすれ、解決することはないのです。

その意味では、

大人が情報に振り回されてしまうことこそが一番の問題

だともいえます。

ですから、ゲームに関して、不安や悩みを抱えた時、
まずするべきことは、メディアの煽りに振り回されないように注意しつつ、
親子関係を良好に保ち、あなたの言葉がきちんとお子さんに届く状況を作っていくことです。

「あなたのためを思って…」と言いながら、自分の不安をぶつけるのではなく、

お子さんのために、あなた自身のために、まずは目の前の不安に耐える覚悟をしなければなりません。

その上で、振り回されないだけの知識、良好な関係を保ちつつ、状況を良くしていくための技術・態度・姿勢を身につけねばなりません。

知るべきこと、学ぶべきことはいろいろあります。
少しずつ考えていきましょう。

今回は、やや前回に似た内容になりましたが、一番大事なところなので。

次は、(1)(2)(3)についてもう少し掘り下げて考え、問題を明確化して絞り込んでいきたいと思います。

【子どもとゲームで悩んだら考えてみてほしいこと:その1】

池田です。最近改めて、お母さんたちゲームのことで悩んでるなー、と思ったので、僕の経験や知識の範囲からですが、少しお話ししてみようと思います。出来るだけ読んでくれた方がラクになる内容にしたいなと思います。

それでは早速始めます。

ゲームはお子さんの「宝物」です。大事に扱いましょう

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あなたにとってのゲームは「悪」かもしれません。「敵」あるいは「毒」かもしれません。でも、ゲーム好きな子ども達にとって、ゲームは「大切な宝物」です。

自分が大切にしている宝物、その宝物の悪口ばかりを言う人、それを大切にしている自分のことまで悪く言う人、そんな人の話すことを誰が聞く気になるでしょうか?

例えば、スポーツ等に打ち込む我が子に、その競技の悪口ばかり言ったり、没頭する我が子に暇さえあれば罵声を投げかけたり、そんな親は普通いません。

が、対象がゲームとなると、なぜか皆さん言いたい放題大暴れ。もはやコワイ人です。

スポーツには打ち込む価値があるんだっ!ゲームなんかと違って!!ですか?

そのへんはまた改めて検討するとして、今はそこは問題ではありません。

我が子の「大切なもの」を、ひとまずきちんと評価しようとしてみる。
そこから始めてみませんか?という提案です。

ゲーム好きな子どもと、ゲーム嫌いな親、両者のコミュニケーションは、
もはや完全なる「異文化コミュニケーション」いや「異星」間かも(笑)

全ては、相手の「文化」を認めるところから、そこからしか道は開けないのであります。

「スターウォーズから」親が学ぶべきこと

それは「恐れ・不安」を原動力として子供に「力」を求めさせたり、行使させたりしてはいけないということです。学力でも同じ。

まさしくフォースの申し子として生まれ出でたアナキン・スカイウォーカーは、十分過ぎる素質と清い志を備えていましたが、ダース・シディアスの巧妙かつ遠大な罠の中で、次第にその「不安と恐れ」を膨らませ、ついにはそれに飲み込まれて、愛する人、ジェダイ評議会、その他もろもろを巻き込んで破滅に至ります。

この話を、師であり親代わり(アナキンは父親なしで生まれて、母親とも幼少期に離別。その後さらに死別。)であるジェダイ・マスター達、特にオビワンとヨーダ、ウィンドゥによる、極めて壮大な子育て失敗の物語として見てみましょう。

はっきりいって、マスター達(特に偉い方の二人)はアナキンの破滅に「加担」しています。

アナキンは、(主にマスター・ウィンドゥによって)どれほど力をつけても、実績をあげても、自分はついに認められない、受け入れられないという思いを繰り返し味合わされています。

そして、あまりに抽象的で果てしなく遠いと感じさせてしまう目標ばかりを提示する、マスター・ヨーダ。

こいつらは何しろアナキンのことをまるで見れていません。彼女が妊娠しちゃってることどころか、彼女がいるのにも気がつかない。いや、そこはこの際いいんですが、とにかく子供(弟子)の不安に無頓着どころか、逆に煽るばかりで全く支えてやる気が感じられない。「不安を感じておるな・・・心を強く持つのじゃ(俺みたいにな)」で助言したった顔されても困ってしまいます。必要な信頼関係の伴わぬところ、真理といえども虚しく響くのみです。

ジェダイ・マスター達が何をおもってアナキンを「育成」していたのか、それは定かではありませんが、アナキンの心が「ジェダイ評議会と関わると苦痛ばかりだ」と日々学習していたことは間違いありません。

認められない・受け入れられない不安が、とにかく結果を!結果をだせる力を!という気持ちを生じさせ「不安を払うために力を求める」という傾向をさらに強めてしまいます。
さらに、母親を救えなかった経験などから、大切なものを守るために力を求め、あげく、圧倒的な力を得なければ全てを失ってしまうという強迫観念をもつに至ります。

頼みのオビワンはというと、ケンカしつつも愛情をそそぎ、それをアナキンも感じていた様子がはっきりみられます。いい関係だったんですよ。しかし、一番大事な時に(使命=仕事のために)側にいません…。その事をこじらせてか、アナキンは最後になって「全部オビワンが悪い!」みたいな感じになってしまってます。「俺の人生がこんなになったのは全部お母さんのせいだ!」的な話で全く笑えません。

この間、一方のダース・シディアス先生は、ほぼ一人で銀河共和国を腐敗させたり戦争させたり、表の顔と裏の顔で両陣営の最高責任者を兼務するという、ありえないほどの激務をこなしながら、ちゃーんとアナキンの心の状態を把握していて、絶妙のタイミングで「不安」や「恐れ」に点火したり油を注いだり。愚痴話だって、しっかりきいてあげます。その上、アナキンがオビワンに切り捨て御免されるや、はるか銀河の彼方から彼の危機を感じ取って、とりあえず全部放り出して(多分)自ら救助に駆けつけます。最悪ですが、「見ている」という点では残念ながら完璧です。

一体なぜこんなことになってしまうのでしょう。
なぜジェダイ達は、あんなに偉そうで冷たくて、アナキンを救うどころか追い込んでしまうのか。

それは、ひとつには、ジェダイ達が「自分たちは正義」と思っていることに起因しているのだと思います。
自分が正しいことを言っていると思うと、人間、偉そうで、断定的で、冷たく、鈍感で相手の気持ちに配慮しないということになりがちです。教育に関わる人の多くが「勉強はするのが当然(しないのは子どもがわるい)」と(心のどこかで)思ってしまっているのもそのせいです。逆に、シスに限らず「悪」サイドはというと、自分たちの倫理的不利を知っていますから、その発言行動は慎重で懇切丁寧。自分の言葉をいかに相手に「届かせる」かということに常に心を砕いています。この差が、彼らの銀河全体の運命を大きく左右したというわけです。

遠い昔、はるか銀河の彼方で、
ウィンドゥがもうちょっとアナキンを認めてやっていれば、
ヨーダがフォースじゃなくて「耳」でもっとアナキンの話をきいてやっていたら、
オビワンがもっと…それはちょっと酷かなぁ。

さて、我々の銀河へ戻りましょう。

生き物は不安や恐怖があれば、何はさておき、まずそれから逃れるために行動します。もちろん人間も同じです。

不安によって「狙った行動」を引き出すことは可能ですが、それは終わらぬ不安の日々へと子供を追い込む行為です。まず安心・安全がなければいけないというのはそういうことです。「不安による(子どもの)管理」と「不安の管理」は厳に区別し、混同しないようにしなければなりません。

「不安による管理」は操作に長けていますから、親の望み通り、あるいはそれにちかい行動をとらせることが比較的容易でしょう。短期的には効果的・魅力的に感じるかもしれません。しかし子どもの基本姿勢は「逃げ」となります。よくて「防御」。極めて消極的になりやすいうえに、積極性を見せたとしたら、それは不安の強さの表れであるという悲しさです。

「不安の管理」は環境を整えることで、本来の意欲や興味を解放するものですから、解放された心がどこへ向かうかをコントロールすることは容易ではありません。無理かもしれません。しかし基本姿勢は「攻め」。積極性を旨とするものになります。

子どもは、その小さな社会の中で、日々あたらしい「不安の種」を拾って帰ってきます。拾うというのはもしかすると違うかもしれません。いわゆる「くっつき虫」のように本人がはっきりと自覚しないままに持ち帰ってくるものも多いからです。

そうして帰ってきた子ども達にむけて、さらなる不安の種を振りかけてはいないでしょうか。子どもの将来に対する「あなた自身の不安」から逃れるために、子どもを不安にさせてしまってはいないでしょうか。

少なくとも我々の銀河には、100%のジェダイもいなければ100%のシスも存在しません。それと同じく「不安による管理」を完全にすてることは難しいでしょう。しかし、それを行うとき、すくなくとも親はそのことを自覚していなければならないと思うのです。

小人閑居して「善」をなす?

小人(しょうじん)じゃなくて「こども」です。
ちょっとダジャレてみたかったのです。すいません。

こんにちは、まなゲーらんど 池田です。

極端な話をしましょう。
実行してしまうと逮捕間違いなしですからあくまで例え話として、

子どもをカラッポの密室にいれて、外に出さず、食事とトイレ、睡眠の世話以外に何も与えず、
その密室に教科書とノートと鉛筆と消しゴムをいれておくと・・・そりゃ間違いなく勉強しますよね?少なくともそのうち。

手に入る唯一の「ひまつぶし」なんですから!!

その密室に、少しずつ足していきましょうか。

お母さん、お父さんが中に入って暮らします。
全員でいっしょに勉強してもいいんですが(笑)、大人には「本」を差し上げましょう。とりあえず活字限定で。

両親との会話や手遊び、相撲などが、勉強に「競合」する「娯楽」として加わりました。
大人が読んでいる本を頑張って読む、読んでもらう、というのも加わるかもしれません。

さぁ次は何をいれましょう?その次は?その後は?

(追記:人によっては「親」が入った時点でアウトな気もしてきましたので、カラッポから自由に想像してください(笑))

どこまで「そりゃ勉強するでしょ!」を(必要な程度に)保てるでしょう。
何が入ると勉強と競合するでしょう。競合としての強さはどうでしょう。
単純にモノ環境だけ(有る=みんな使える)で考えてみましょう。

っと、何が一番邪魔かを決めるのが目的ではありません。
何にもなかったら「そりゃ勉強するよね?」というところに戻って考え直してみること自体が肝心なんじゃないかなと。

仮にお子さんが勉強ぎらいだとして、それはどの程度「勉強のせい」で、どの程度「本人のせい」で、どの程度「競合のせい」なのでしょう。例えばレゴなどの「ブロック」と「勉強」が競合した場合、どの位の確率でどちらが勝利するでしょう。その予測の根拠はなんでしょう。「コロコロコミック」ではどうでしょう(僕は少年期毎月この発売日を心から待ち望んでいました。読み終わると次まで1ヶ月と思って絶望的な気分になるほどに(笑)なぜなら僕が入手できるコミックが原則として月に1冊これだけと決められていたからです。)。などと色々較べてみましょう。

そして、「これ以上はモノを置けない」となったら現実と較べてみましょう。その現実の環境でお子さんが勉強するのがどの程度の難度のクエストか、多少実感が沸くのではないでしょうか。

「勉強」に絞らなくても、読書でも工作でも、妄想だって構いませんが、
一般的に望ましいと思われる行動を子どもにとってほしい時は「暇させておくこと」が肝心なように思います。

「暇つぶしとしての優秀さ」がモノの「危険度」を計る上で重要な指標となり、
「つぶさないで暇しておけばいいやん」という態度が強力な武器となりえるのであります。

テレビ・ゲームと勉強/ジャンクフードと健康的食事

テレビやゲームと勉強の関係って、ジャンクフードと身体に良い食事の関係と似ている。

ジャンクフードをおなかいっぱい食べたら、どんなに身体に良いものでも、もう食べられません。逆もしかり。
つまり両者は子ども達の胃袋の容量(胃袋シェア)を奪い合っているといえるます。
娯楽メディアと勉強の場合は、子ども達の「時間」(時間シェア)を奪い合っているというわけです。

ジャンクフードは手軽さ、食べやすさ、さらに「いかにしてハマらせるか」を常に追及し、休むことなく「改良」が加えられているし、膨大な広告費を投入してプラスのイメージとセットで刷り込む「努力」が行われ続けています。

これらは、身体(生理)と感情(情動)を掴む努力だといえるでしょう。
親の都合・事情や怠け心などについてもよく研究されていて、良いタイミングでの提供と、上手い言い訳(後ろめたさへの)の準備まできちんとされていたりします。

一方、良い食事や勉強を推進する側が訴えかけようとするのは、多くの場合聞き手の「理性」に対してですが、「理性」が「身体および感情の下僕」であることは多方面からの研究によって明らかなことです。つまり、「良い」側が「決定権のない人」を必死に説得している間に、「決定権者」とジャンク側の間では、とっくに合意が成立してしまっているというなんとも間抜けな有様なのであります・・・。

例外的に上手く言っている「良い側」の活動。例えば、食に関するジェイミー・オリバーの活動などは、この辺がよく分かっているなーという感じがします。ジェイミーの言動が、やけに攻撃的なのは、そうでなければ「決定権者」に届かないことを自覚しているからだろうと。彼らから学ぶべきことは多いと思います。

追記:
子ども達を「脅し」ても成果に繋がらない(短期的に取り組みを促進することは可能だが、長期的に害が上回る)ので、脅しの矛先は大人に限定すべきでしょうね。この記事を読んでお子さんに「ちゃんと勉強しないと~だぞ!」なんて話をしないで下さいね。

ドラクエにおける、プレイヤーの「反復作業」と勇者の「経験」

knight

こんにちは、まなゲーらんど 池田です。

出張授業で子ども達と話すとき、ゲームと勉強の共通点としてあげるもののひとつに「繰り返しで強くなる(上手くなる)」というのがありますが、ゲーム内における反復って、一体何回ぐらい行われているもんなんでしょう、また、その反復における「キャラクターの成長体験」とはどのようなものなのか、あえて流さずにちゃんと考えてみるのも面白いかもしれないと思ってやってみました。

世代をまたいで話題として共有できそうなもの、ということで今回は「ドラゴンクエスト1」を取り上げます。
主人公が単独行動で、戦闘も1対1の遭遇戦ということで経験を量的に把握しやすそうというのもこれにした理由です。

ラスボスである竜王をある程度確実に倒せるレベルであるレベル20に達するために必要な経験値は29,000ポイント。
スライム・レベルから死神の騎士・レベルまで全てのモンスターとの戦闘から得られる経験値の平均が23.03ポイント。
本当は出現率やらも考慮すべきなんでしょうが、そこはざっくり割り算してしまうとレベル20到達に必要な推定戦闘回数は1260回となります。

常にある程度の苦労を要する(順調な成長に資する)レベル帯のモンスターとのサシの遭遇戦を闘い、撃破し続けること1260回・・・。これは量的にみてどういう経験なのでしょう。

現実世界における人物の経験と比較して見ます。
1、「剣豪」宮本武蔵:生涯に約60回の決闘を経験
2、「レッドバロン(世界史上最強の撃墜王)」リヒトホーフェン:撃墜数80機

うーん、こうして比較すると1260回の戦闘のヤバさ加減がよく分かりますね。
スライムに苦戦する所から、竜王を倒す勇者に成長するためには、剣豪宮本武蔵の20倍を超える実戦経験が必要だった
(武蔵は数十人と同時に戦ったりもしてますが、勇者の相手も明らかな怪物だったりしてますし・・・)と・・・。それに勝ち残ったとすれば、そりゃまぁ、勇者の人間離れした強さも納得できるというものです。

同時にモチベーション維持装置としてのゲームを見れば、それ自体は退屈極まる操作である「コマンド入力」を、これだけの回数に渡って、くりかしくりかえし実行することを可能にさせるだけの性能があったということになります。

当然ながらゲームはリアルな報酬も利益もプレイヤーに対して提供出来ませんから、内発的な動機付けに頼ってこの反復回数を実現している訳です。反復の中で繰り返し感じられる有能感・効力感。つねにごく近いところに具体的に見えている「具体的な成長像(なりたい自分)」等など、とても理にかなっています。これを「刺激でつっている」とだけ捉えて眼をそらしていると本質を見失います。

褒めてやる気をださせる。叱ってやる気をださせる。どちらも将来的な行き詰まりの約束された道です。
自家発電的に再生産される「俺スゲー!」だけが、持続的な努力を可能にします。
その流れに乗せる支援を行うべく、どうしたら「はがねのつるぎをゲットした自分」や「ベホイミをおぼえた自分」と同じように「繰り下がりの出来る自分」や「通分をマスターした自分」に憧れを感じさせられるか。ここのところをこそ真剣に考えるべきなのです。

地味ーな練習を繰り返し繰り返し行ったとして、1260回以内に習得できなさそうなこと、って・・・少なくとも「勉強」に関していえば、そんなに多くなさそうですよね?

トッキュウジャーvs歴代戦隊ヒーロー 大人の為のもうひとつの「ヒーロー大戦」

テレビを観る子ども達

こんにちは、マナげーらんど 池田です。
多くの子ども達が幼児期に夢中になる戦隊ものシリーズについて、最新作と90年代、70年代の作品を刺激量で比較してみました。
その結果、同じく戦隊ものシリーズをみていても、現在の子ども達とかつて子どもであったころの私たちでは、まったく異なる経験をしているであろうことが示唆されました。

僕は以前から、勉強・宿題に「とりくめない・繰り返せない」子ども達について、彼らが既に大人である我々には「想像もつかないような退屈」の中にある可能性を指摘してきました。
退屈さというのは相対的なもので、どのような刺激を「普通」と感じているかの影響を受けます。人間に限らずすべての生き物は、あらゆる刺激にすぐ慣れていきます。そして強い刺激になれれば、その強さをあまり感じなくなり、同時により刺激の少ないものにたいして、より大きな「つまらなさ」を感じることになります。ですから、強い刺激に慣れればなれるほど、子ども達は、例えば計算・書き取りプリントなどに取り組む際に、より早く飽き、より強い退屈とそれにともなう苦痛を感じる可能性が高くなるはずなのです。

現在の子ども達が、かつての子ども達である我々と比べて、より強い刺激になれているであろうことは、なんとなくレベルでも納得してもらえると思いますが、それをあえて量的に比較してみようというのが今回の企画です。

今回比較対象としたのは、シリーズの最新作であり2014年5月現在放映中の「烈車戦隊トッキュウジャー」と、92年放送の「恐竜戦隊ジュウレンジャー」、75年放送でシリーズ第1作である「秘密戦隊ゴレンジャー」です。出来るだけ客観的に比較できる基準でということで、シナリオ等の内容については吟味せず「眩しさを感じる視覚効果の出現回数」を比較しています。
(「眩しさを感じる」の部分に観察者である私の主観が入ってしまいますが、背景で小さく光る計器類などまで数えていくとキリがなかったりもしたのでそのようにしています。)

各作品の第1話について、プロローグからエンディングまでの約25分間の間にどれだけの回数「眩しさを感じる視覚効果」が使われているかをカウントして比較した結果をまとめたのが下のグラフ(画像)です。

戦隊シリーズ刺激比較

結果、ゴレンジャー(’75)で37回、ジュウレンジャー(’92)で89回、トッキュウジャー(’14)では実に324回も「眩しさを感じる視覚効果」がみられました。ゴレンジャーとトッキュウジャーの比較では8.76倍にもなります。(トッキュウジャー第1話を視聴した場合、22分10秒の間(使用したDVDにエンディングが含まれなかったため他よりやや短い)、平均して約4秒に1回のペースで眩しさを感じるレベルの強い光を見続けていることになります。)

さらに言えば、個々の視覚効果についても、年代が変わるにつれて格段に強くなっていく傾向にあると感じました。

ゴレンジャーでは火薬を用いた火花と爆発を直接撮影したものがほとんどであるのに対して、ジュウレンジャーでは撮影したフィルムに処理を加えるタイプと思われる効果がかなり追加されて賑やかさが大幅にアップ、トッキュウジャーに至ってCG使いまくりの画面中光りまくりという状態です。画面全体の明るさ、さらに言えば視聴機器であるテレビやモニタの画面そのものの明るさも大きく変化しているわけですから、それらも加味して、いったいどれほどの刺激の差があるのかというのをイメージしていただくとより実像に近づくかもしれません。

さて、この比較を通じてお伝えしたいこと、考えてみていただきたいことですが、「危険だからすぐ観るのをやめさせましょう!」というのとはちょっと違います。
(それも良いでしょうが、なかなか難しいと感じる方が多いでしょう。)

肝心なことは、子ども達が既にその刺激の中に暮らしていて、慣らされているということであり、同じく「戦隊ものを視聴する」と称される行為でも、我々大人が体験したそれと今子ども達が体験しているそれは、まったくの別物である可能性が高いということなのです。何しろ、少なくとも8倍以上になったであろう刺激を、記録メディアを使って「繰り返し」見ている場合が多いのですから。

子ども達に「勉強しなさい!」「宿題やったの!?」と叱るとき、その「できない」の一端、もしかすると大半は我々が「育てた」ものかもしれないという自覚のもとに発言・行動しなけばならないし、その前提のもとに対策を考えねばならないということなのです。

大人社会への小窓(取り次ぎ役)としての勉強

特別なギフテッドである場合を除き、子ども達にとって、大人一般から高評価を受け特別に扱ってもらうための殆ど唯一の方法が「勉強」です。親や先生がどれだけ「良いところを見つけて伸ばす」態度を示そうが、大人社会一般の通念として、そのようであるということを、子供たちは敏感に感じ取ってしまいます。他のあらゆる尺度での評価に、カッコつきで(勉強はできないけど)(勉強ができる上に)などがイチイチ付着しているのが透けてしまうのです。

そして、勉強に向いた、あるいは発達的に先行している子ども達の一部が、評価と高待遇を受け取り、それ以外の多数の子ども達が、自分達は評価されないのだという事を知ることに、というより体感することになる訳ですが、この構造は何かに似ていますね。「取次ぎ役の権威肥大」です。

歴史上、権力者の側近、ことに本来自身は権力を持たないはずの「取り次ぎ役」の権威が異常に肥大化した例は枚挙に暇がありません。彼らを通さなければ何者も権力にアクセス出来ない状況が、本来持ちえ得ないはずのものを与えてしまうのです。

子ども達にとっては勉強が、大人社会への取り次ぎ役であるという訳です。勉強に気に入られるか上手く取り入ったもの達だけが、大人社会の好意を得て優遇されることになります。他の道が完全に存在しないわけではありませんが、極めて高難度かつハイリスク。古代に例えるなら、剣闘場の英雄となって謁見をゆるされるようなレベルの話です。

もちろん、好意と高待遇を獲得した子ども達にとっても問題は容易ではありません。機嫌を損ねることなく関係を維持していかねばならないのですから。

かくして「勉強様」の権威は肥大化し、勉強はモンスター化します。子ども達にはコレをねじ伏せるだけの力をつけるか、上目遣いで付き合っていくか、逃避するか、殆どこの3択しか与えられません。そして逃避を選んだ場合、殆どは完遂されることなく捕縛されるに至ります。

(大人社会の縮図として現れる子ども社会においても、勉強様の権威は、歪んだ形ながら浸透しており、この事が逃避の完遂をより困難にします。)

我が子をすすんで「取り次ぎ役」の機嫌とり名人、あるいはその虜囚に育てたいと思っている人は、普通あまりいないでしょうけれど、深く考えずに「勉強は大事」と連呼すること(そう感じさせる態度をとること)、あるいはそのような情報源に子どもを頻繁に曝すことは、つまりそういうことなのです。

モンスターと戦うものには、何より「敵を知る」ことこそが重要。子どもを応援しているつもりが、いつのまにかモンスターの味方をしてしまっていた、とならないよう注意したいものです。

JTB社員のバス手配ミス隠蔽について考えていたら結局勉強の話に・・・

こんにちは、まなゲーらんど管理者の池田です。

JTB社員のバス手配ミス隠蔽が話題ですが、案外他人事ではありませんよね。

生徒を装った自殺をほのめかす手紙で、遠足を延期させようという「手段」が劇場的で大掛かりなため話題として盛り上がっているのだと思いますが、目的や行為の本質に目を向ければ、ミスをごまかそうとした、というもので極めて身近なものです。ウソをついて失敗をごまかそうとした(実際にごまかした)経験の無い人などおよそいないでしょうから。かくいう私も覚えがあり過ぎてとてもいちいち列挙していられないほどです。

忘れ物や待ち合わせへの僅かな遅刻から、重大な仕事上のミスまで、実にさまざまな失敗を私たちは日常的に「誤魔化して」すごしています。

書店でビジネスの心理に関するものを探してもいいですし、ネットで検索してもいいのですが、「失敗は素直にあやまるよりも誤魔化した方が得!」と言い切ってしまっているものも少なくありません。

わざわざ書き手にいわれなくても、失敗をしたときに「誤魔化したい」という気持ちが沸くのが、ほぼ習慣化してしまっているというひとが多いのではないでしょうか(実際に誤魔化すかどうかは別としてそういう気持ちが沸く、ということです)。

そういう気持ちは、いつどこからやってきて、いかにして習慣化するのでしょうか。
はじめはやはり親との関係における不安でしょう。(評価されたい(怒られたくない)など)。
そして、周囲の大人(先生など)や仲間との関係へと広がりつつ軸を遷していきます。(認められたい(侮られたくない・怒られたくない))

さて、学齢に達した子どもにとって、もっとも頻繁にこの不安にさらされる機会を提供してくれるもののひとつが、やはり「勉強」なのではないでしょうか。(褒められたくてウソをつく、ごまかす、というのも多々あります。これも同じと考えます)

勉強の嫌い・苦手な子ども達は「勉強」と聞いただけで身構えます。
(「勉強なんて意味ない」というのも防衛反応です。)
なぜこうなるのかといえば、彼らが日常的にこの「勉強」とセットで「受けたくない評価」を受けているからです。
(「勉強なんて意味ない」だから「出来ない僕は駄目な子ではない」)
同様に、宿題が出来てない子は、「宿題」と言うだけで、何もまだ聞いていないのに宿題が出来なかった「理由」を聞かせてくれます。この反応のすばやさ、理由の多様さともっともらしさ、理由の上への「いなおり」度合いは、年齢があがるごとに強まっていきます。当然です。長年にわたって「鍛えられて」いるのですから。

こうやって鍛えられ、「幸いにして」ミス少なく(露呈するミスが少なく)成長した子どもが、社会に出てある日「とんでもない」(と本人が思う)ミスをしてしまったとき、どれほど「おかしな」誤魔化し方を思いついたとしても、さらには、実行にうつしてしまったとしても、それは一向に不思議なことではありません。

私たち大人が、子ども達に勉強を「課す」ことによって、彼らの何を育て、何を鍛えているのか、このところを、よくよく考えなければなりません。

勉強は単なるスキルです。たかがスキルを鍛えるために(重要なスキルであることは認めるとしても)、私たちは何を代償として支払っているのか、彼ら彼女らに支払わせているのか、その視点が常に必要だと思います。

僕が勉強ゲームを扱うのは、勉強(ことに習得・ドリルに相当する部分)なんてその程度(遊び感覚で身に着ける程度の)ものだと考えているからでもあります。深刻にやるようなものではありません。