これから「学歴」ってものはどう扱われるようになっていくのか

学校へ伺って、子ども達と勉強について話し合ったり、意見を聞いたりすると、親世代の影響というか「学歴社会」の影がまだまだ非常に色濃く見られるなぁと感じます。なんというか、そこだけやけに古臭いと言いますか・・・。

これからこの「学歴」ってやつは、どのように扱われるようになっていくのか、ちょっと考えを整理してみようと思います。

協働を可能にする記号としての学歴

人は「微笑む」生き物です。他の生物はそんなことはしません。
なぜ人は微笑むのか。それは「私は安全ですよ。あなたに危害を及ぼすものではありませんよ」と相手に伝えるためです。

人は「大きな白目」を持つ生き物です。白目を持つことは相手に目の動きを悟られ、心を読まれることに繋がります。心理状態を読まれることは生存上不利になるので、他の生物は白目をほとんど持ちません。我々は敢えて心を読ませることで、互いに「大丈夫ですよ」と伝えあっているわけです。

学歴の話のはずが、微笑みだの白目だの、関係のなさそうな事ばかり述べていますが、ここで確認したいのは、学歴というものは、これら同様、人類が赤の他人と付き合い協働していく上での一つのサインとして機能している(してきた)ものだということです。

「私は一定の理解能力と処理能力を備えた人間ですよ」
「退屈や理不尽に一定以上の耐性があって、我慢のきく人間ですよ」
「だから、この仕事に私を採用して大丈夫ですよ」

例えば、こんなことを伝える(受け手側に期待させる)記号です。
このサインを受け取った側が、それを「評価」して、採用だったり依頼だったりという「リスク」を取ることを受け入れてくれることを期待した記号です。

受け取る側としては、限られた時間の中で、相手を評価して決断しなければならない。その時に、「ある程度信頼できる記号」であってくれることを「学歴」に期待してきたわけです。

この記号の信頼性がかなり微妙なものであることは、ずっと以前から言われてきました。それでも学歴がここまで価値を(減らしつつも)保ってきたのは、代わりになるより良いものがなかったからに過ぎません。

評価経済へ向かう情報社会が学歴の存在意義を脅かす

昨今、いよいよ学力・知的能力・知識・技能に加えて、人格的特性や政治的信条、経済的状況にいたるまで、あらゆる個人の「能力・信頼・信用」情報が、ネットを通じてやり取りされるようになりました。これらの情報を数値化するサービスも次々と出現しており、一部ではそこでの評価がすでに通貨にも似た取引上・生活上の価値を持ち始めてさえいます。

誰もが極めて詳細かつ客観性と検索可能性の高い「私はこんな人間です」というデータを伴って世間を歩き回り。初めて出会う誰かとやりとりする時でも、必要に応じて互いその情報を引き出す(分析したり分かりやすくまとめたりはAIがやってくれます)ことができる世界が目前に迫っています。(ビジネス的需要もあってこの流れはいよいよ加速するでしょう)

これが普通になった時、誰が「学歴」を重視するでしょうか。かつて「学歴」という記号に期待されていたもの、その中身そのものの方を、具体的に分かりやすく容易に知ることができるというのに、敢えて信ぴょう性の低い「記号」に期待してリスクを負う人など、あっという間にいなくなってしまうでしょう。

大学入試改革の足元で急速に進む大変動

「学歴」が社会的価値を失っていくに伴い、教育機関は「学歴付与」という機能を失っていきます。そして、個々の学生を如何に育成したかを細かく問われるようになっていきます。「○○大出のAさん」から「Aさんの出た○○大」という評価の方向へと逆転していくということです。さらに、評価対象となる単位は「大学」ではなくなり「研究室」や「プロジェクト」へと変化していくでしょう。この流れの中で、個人の評価も「どのプロジェクトでどのような役割を果たしたか」をより細かく評価されるようになり、大学はそれらプロジェクトが立ち上がる「場」として評価されるようになります。そしていずれ、情報サービスのさらなる発展が「場」としての大学の存在意義も否応なく低下させていくことでしょう。

2020年、大学入試改革とか言っているその足元で、根底が覆らんとしていることも忘れてはいけません。

特定の試験の価値が暴落し、現時点での力が評価されるようになる

この変化は「学び続ける個人」にとって大きな恩恵をもたらします。

高校入試も大学入試も、全て「その時点での学力」を表す指標でしかなくなります。個人に関するあらゆる評価が刻々と更新され続ける世界にあっては、「〜時点での評価」を常に書き換えることが可能になります。入試の失敗は「とある試験」で成績が振るわなかったという評価に過ぎなくなっていきます。ソーシャルな失敗は尾を引くようになってしまうでしょうが、学力・知識・技能の不足は努力によっていつでも補うことが可能になります。

入試に失敗したら人生終わり、的な妄想から解放されるのは、子ども達にとっても保護者にとっても非常に良いことだと思います。

いつ何を学ぶかの自由を得て、あるべき状態へ

もちろん、学力・知力が今後ますます重要な能力となっていくことは変わりません。勉強は相変わらす極めて重要です。でも、「何歳の何月までにどの水準に達しているか」という意味のない縛りに追い立てられることは、なくなります。この縛りから真に解放された時、小中学校も家庭も本来の最重要課題である「意欲や興味関心を守り育てていく」というところにようやく立ち帰れるのではないかと期待しています。

自然を味わう – アキグミ –

こんにちは、まなゲー池田です。
自然の中へ出かける時、食べられるものを探すことにしています。

食べるという学習法

実際に食べる時もあれば、さわったり嗅いだりしてみるだけの時もありますが、ただ眺めて歩くよりもずっと楽しいし、視覚・聴覚・触覚・嗅覚に味覚も加えてやることで、五感を総動員することになり、心に残ることが+25%を大きく超えるように思います。

草花の名前や、姿形など、子どもに教えてもなかなか覚えませんが(そういう僕も変わりませんけれど)、食べたものはよく覚えているし、一旦忘れてもすぐに思い出せるものです。

今回、帰省先の富山で入手したのはこれ。

「アキグミ」です。直径数ミリから1cmほどの丸くて赤い実が、たくさん実っていました。

周りにはキャンパーがたくさんいましたが、みんな持参した食べ物の調理準備にお忙しいようで、木の実を採って食べようというなどという人はとんといないようで、取り放題でした。もちろん、節度も学ばねばなりませんので、少しだけ、確実に食べる分だけを取ることにします。

アキグミを食べると、まずまず強い渋みの後に、優しい甘みがやってくるのですが、この渋みの正体はタンニンだとか、リコピンがたくさん含まれていて美肌効果があるらしいとか、そんな話もしながら、一粒また一粒と食べて行くと、興味の幅もまた拡げてくれるように思います。

この日は他に、クルミやムカゴも取れました。秋の野山には、実に様々な実りがあって、ちょっと目を凝らせば、そこら中に「食べられそうなもの」がゴロゴロしています。もちろん、強い毒性を持つものや、渋みやエグ味が強すぎてとても食べられないようなものもたくさんあります。危険なものについて知ることも大切なこと。食べられるものには、ちょいちょい、それとよく似た危険なものがあったりして、自然の作られ方についても思いを巡らすきっかけを与えてくれます。

そんな雑多なものの中を歩き回って「これはどうだ、あれはどう?」と散策していると、家族の仲よさも一段と増すようで。いいこと尽くしですよ。

※危ないものは本当に危ないので、いろいろ調べてみること、なんでもかんでも食べないこと、初めて食べるものは、ちょっぴりにしておくこと、などは大切です。

「脱やる気」でやれる自分に近づく(2)

こんにちは、まなゲー池田です。今日は「脱やる気」シリーズの2回目。
前回、私たちの「意識」(意思もここに含まれます)は、株式会社ジブンの社長ではなく、野生丸出しのワンマン社長「無意識」さんの、広報担当程度の存在でしかないというお話をしました。自由意志を尊奉する現代に育った私達にとって、極めて不快な事実です。しかし、これを受け入れることが「脱やる気」への第一歩となります。

はびこる「やる気原理主義者」

なんでもやる気のせいにする人のことを、僕は「やる気原理主義者」と呼んでいます。すぐに「やる気があるのか!」「やる気が足りてないからだ!」みたいなことを言い出す人たちです。いっぱいいますね。特に何らかの意味で「指導者」と呼ばれる人に多いのですが、これはなぜか、その人たちにとって「簡単で都合が良い」からです。

見ることも測ることもできない「やる気」なんていう謎なモノを持ち出して、他者の行動や結果の欠点・不備を指摘し、「やる気がないからだ!」とか「やる気が足りないせいだ!」とか、そんなのはバカでもできることです。

そんな人ばかりなのは、結局その人たちが、「なぜやれるのか・なぜやれないのか」について本質的なことは何も知らないからです。宗教的な原理主義者が、分からないことや不合理をなんでも神さまや信仰のせいにするのと同じです。

やれる・やれないを全て「やる気」の問題にしてしまえば、行動の不足も工夫の不足も全て「当人のせい」にすることができます。指導者としてこんなに楽なことはありません。

結局「やる気」ってどんくらいのもん?

株式会社ジブンが「無意識」社長がなんでも勝手に決めてしまうワンマン会社だとわかれば、「やる気」の正体も見えてきます。

意識広報は、決定権はないものの、「やるべき(なのに)」とか「やったほうがいい(のに)」などと、懸命に考えています。

無意識社長が意識広報の考え通りのことを「やる」と決めたら、意識広報は「やる気出た!」と内外に向けて説明し、「やらない」と決めたら「やる気出ない・・・」と説明する。「やる」の源泉が「やる気」であるという考え方とは真逆になってしまいますが、どうもこのあたりが事実に近いようです。

「負のやる気」についても考えてみる

やるべきと思っていることができないのと同様に「やめたほうが良い」「やってはいけない」と思っていることを、やめられない、ついやってしまうというのも、また我々の日々の現実であります。人間の意思(意識)がいかに小さな声しか持たないか、ということを考えるには、こちらのほうがむしろすっと理解できてしまうかもしれません。

そういう時、私たちは自分の内外に向けて、なんとか理由をこじつけようと努力する羽目になります。言い訳ですね。「やめなきゃ」と思っていることをしてしまった場合など、そこにまともな理由などあるわけがないのですが、なんとかこれをこねくり出そうと努めてしまうのが、意識広報さんの悲しい習性です。

やる気 → やれる は偶然の一致に過ぎない

こう考えてくると、「やる気」と称されるポジティブな感情は、実は、意識広報さんの「やるべき」と一致する決定を、たまたま無意識社長が下してくれた、その時に感じる良い気分をそう呼んでいるだけなのではないかという感じがしてきます。

妙な言い方に聞こえるかもしれませんが、つまり、「やる気出た!」もまた、無意識社長の決定に対する一種のこじつけ、後付けに過ぎないということです。

意識広報の考えと、無意識社長の決定の傾向がうまい具合にあった場合「自分にはやる気がある。だからやれる」と、逆にずれてしまった場合「自分にはやる気がない(足りない)からできない」と感じる場合が多いわけですが、それらは実は空想の産物にすぎないというわけです。

従来の「やる気」に近いもの

「やる気出た・やる気でない」がともに、「やる・やらない」決定に後付けされた情報でしかないとすれば、これまで「やる気」と呼ばれてきたものに一番近いものは何か。それは意識広報さんのか細いつぶやき「やったほうがいい」「やめたほうがいい」だということになるでしょう。

「やる気が足りない」から自由になる

言い換えると、「やるべき」「やらなきゃ」「やめるべき」「やめなきゃ」この気持ちが意識にあれば、それは「やる気」はある、ということになります。そして、「ある」さえ満たせば、もうその量や強さは問題ではありません。

くり返します。もし何かに対して「やらなきゃ」という思いがあるなら「やる気」はもう充分です。やる気は「ある」のです。

今「やれて」いようがなかろうが、それはもう「やる気の問題」ではありません。やる気の有る無し、足りる足りないから自由になって、どうやってあのワンマン社長を思い通りに動かしていくか、それを考えていくことにしましょう。

やる気があるとかないとか、出るとかでないとか、そんな無駄な考えから、今日自由になりましょう。

発火法を制覇したい(1)


このブログでは、極端一致(extremes meet)な子育てを一つのテーマに掲げています。両極の一つであるリアル世界を味わうことの一つの要として、「火」の扱いがあると思うのですが、このシリーズでは世の中に様々ある「発火法」を一通り、必要な道具を極力自作しつつ、制覇していきたいと思います。

普段、カチッとか、ポチッとかで手軽に取り扱っている発火を、あえて四苦八苦しながら実現するという過程を親子で楽しみたい。

ということで、まずは、主要な発火方法をリストアップしてみます。

  • 摩擦式
  • 火花式
  • 光学式
  • 化学式
  • 電気式
  • 圧縮式

ざっと、このくらいの種類に分かれるようです。すでに取り組み済みのものもあるのですが、次回以降、順次詳細を紹介しつつ、じわじわレポートしていきたいと思います。

極端一致(Extremes meet)な子育てがしたい

両極端イメージ

両極端イメージ

こんにちは、まなゲー池田です。
僕がデジタル・テクノロジーやデータサイエンスを子どもに学ばせたいと思うのと同時に、自然に触れ、観察し、できるだけ色々な方法でそれを味わう経験をつませたいと思うのは、どちらも同じ気持ちからきています。それは『この子の人生が豊かで面白いものとなりますように』という実にシンプルで当たり前の気持ちです。

リアルなマテリアルの世界と、バーチャル(デジタル)なデータの世界、これらは一見して両極端であるように見えます。確かに両者は真逆な存在です。でも同時に、実際のところ、僕らは両者が不可分に入り混じった世界で暮らしているというのもまた確かなことです。今後テクノロジーがさらに発展することで、リアルとバーチャルはより遠ざかるとともに、より緊密に混ざり合っていくことでしょう。

ですから、日々なんとなく過ごしている(過ごさせている)と、そこで積み重ねられる経験の中身が、実に中途半端なことになってしまいます。都市生活でより顕著ではあるでしょうが、かなりの田舎に暮らしていたって、それほど変わらないようです。僕はど田舎で生まれ育ちましたが、時折帰省して、付近をうろうろ散策しても、地元の子ども達が(僕の子ども時代のように)がっつり自然と遊んでいるところなど、ほぼ見かけることはありません。都会の子たちと同じく、自由時間の大半を、ウチの中でゲームや動画と過ごしているのでしょう。そう、どこだって大して変わらないのです。

そうして中途半端に過ごす日々を経て、子ども達は、リアル世界のこともバーチャル世界のこともろくに知らない若者に育つでしょう。それってすごくつまらない。

両極を(体験として)知り、どちらに対しても高い感性を持つ。そういう若者に育てたい。その後、どう生きることを選ぶにせよ。その目に世界はより彩り豊かで奥ゆき深いものに映るだろうと思うのです。

「脱やる気」でやれる自分に近づく(1)主導権を持たない現実を受け入れる

こんにちは、まなゲー池田です。
子どもと勉強に関わる仕事を続ける中で、ずっと考えていることがあります。・・・「やる気」と「やれる」って、あんまり関係なくないか??ってことです。「やる気」について知れば知るほど、どう考えてもそうなんです。が、しかし、世の中謎の「やる気信仰」に溢れています。このせいで無駄に苦しむ子ども(大人も)がすごく多いように思います。

そういうことで、この訳のわからん「やる気信仰」から抜け出して楽になって、できるだけ「やれる」自分になっていこうというシリーズです。何回やるかわかりませんが、基本的に客観的な根拠のある話だけします。それらをベースに考え方と行動調整のことだけお話しします。いつの間にか神様とかが出てきたり、サプリメントを売りつけられたり、とかそういう心配はありません(笑)

こういう話は長いと疲れるので、なるべく短く切っていきます。初回のテーマはこれ。

私が何をするかを、私は決められない

無意識、と言ってもフロイト先生が言ってた今となっては相当胡散臭いアレではなくて、もっと最近になって脳内の様子が色々観察できるようになってからの「無意識」に関する話です。

私たちは普段、自分の行動を自分でコントロールしていると思い込んでいますが、どうも全然そうじゃないぞということが、様々な研究から、わかってきてしまいました。

私たちの脳は、大まかに言うと、魚類や爬虫類と同じような「古い脳」の上に、高度に進化した動物が持つ「新しい脳」をかぶせたような作りになっています。

私たちが通常、心あるいは「意識」と呼んでいるものは「新しい脳」の方で活動していて、日々あれこれ考え、目標や計画を立てたりして、「あるべき」とか「やるべき」とか、「正しい」とか「間違い」とか色々思い悩んでいます。

一方、「無意識」はというと、古い脳の中に住んでいて、目前の物事について「スキ!」か「ヤダ!」か、それだけを考えています。先のことなど全く考えませんが、以前のことは実によく覚えていて、「これは前にイヤだったヤツだからヤダ!」などと一瞬で判定を下します。

そして、困ったことに、「無意識」は常に「意識」より手前にいて、より早く情報を受け取り、より早く決定し、より早くカラダに命令を下してしまうのです。

社長のつもりでいたが、実は広報さんだった

例えば、手をのばしてテーブルの上のコップを取る。そんな単純な行動でさえ「無意識」主導で行われているらしいことが判明しています。近代以降「わたし」は「意識」あるいは「理性」がコントロールすると信じられてきましたが、行動決定権は「無意識」にガッチリ握られてしまっていたのです。「意識」にできるのは、行動に理由を後付けすることと、後は、「こうしたほうがいいんじゃないかなー」と控えめに提案する程度のことでしかないらしいのです。

株式会社ワタシの社長だと思われていた「意識」は、実は、動物的勘だけで突き進むワンマン社長(無意識)の決定に、それらしい体裁を整えて社内外へ発信する「広報さん」でしかなかった。という驚愕の現実が見えてきました。そりゃ、思い通りにワタシが動かなくて当然です。何しろハナからそんな権限を持っていなかったんですから。

驚きの事実を突きつけられた、元自称社長の広報(意識)さん。さて、ここからどんな手を打っていくのでしょうか。

5分でよめる!AIにビビりすぎないために、先生・お母さん・お父さんが絶対知っておくべきこと

AI、AIと騒がしいこの頃ですが、先生、あるいは子育て中のお父さんお母さん的に、これだけは知っとこう、というのをまとめてみたいと思います。なるべく簡潔に短くまとめます。特にお急ぎの方は、見出しだけ読んどくのもありかと!(書いた後で朗読してみたら4分未満で読めました。)

今のAIは、統計と確率とビッグデータで動きます。

強大な計算力を武器に、与えられた膨大なデータに統計処理を施すことで、そこにデータの相関関係を見つけ出す。見つけた関係を用いて次の処理の精度を高める。これらの作業を無数に繰り返すことで特定の問題に対する正解予測能力を高める。というのが今のAIの学習方法です。この方法を採用することで、前世代のAIには対応出来なかった複雑な問題を処理することが可能になりました。

このことは、飛躍をもたらす一方で、およそコンピュータのイメージから遠い、新たな弱点を生み出しました。つまり、

今のAIは「必ずミスする」

ということです。複雑な問題を「確率で」処理しようとするのですから当然こうなります。例えば成功率が99.9%だったとして、それはつまり1,000回に一回ミスするということです。

このミスを、コストとして受け入れらる作業(仕事)であるか否かが、ある仕事をAIに任せられるか否かを問う重要な指標となります。

機械は責任を負うことができない

そして、このことは「AIのミスの責任を誰がとるのか」という新たな問題を生み出します。もちろんAI自身は責任を取ることができません。製造者責任ということになりそうですが、開発会社はこの大きすぎるリスクを決して負おうとはしないでしょう。重大な責任を負う仕事を、AIが単独で担うことは、その能力とは全く別のこの要因によって、少なくとも当面の間は出来ないでしょう。

AIを育てるのには莫大なコストがかかる

ごく卑近な例からいきましょう。フリーで使えるAIを、自宅に設置した個人で買えるレベルの良いパソコンにのっけて、多少混みいった学習をさせてみます。計算を始めたパソコンは数時間から数日、ぶっ通しで計算を行います。これを繰り返しながらAI育成を行うとどうなるか?・・・翌月、確実に家計が破綻する金額の請求書が電力会社から届きます(笑)

これをずっとずっと大規模におこないつつ、処理させる膨大なデータを用意するコスト、希少なAIエンジニアに支払う高給というコスト、もろもろでエライ事になるのが、現段階でのAI育成です。(ただし、一旦学習を済ませたAIを、複製しあちこちで同じ仕事をさせることには、それほどのコストを要さないだろうことも覚えておきましょう。)

今のAIもそれほど融通はきかない

高度な学習が可能となり、複雑な問題解決や状況判断を行えるようになったAIですが、学習済みでない新しい状況やデータにはまるで対応できません。この問題は、コンピュータの性能が上がっても解決せず、現状とは異なる新しいアプローチが必要になります。いわゆる「汎用AI」、人のように新しい状況に対応できるAIは、まだまだお話世界の存在です。

まとめると、今のAIは

高度に複雑な問題を処理できるようになった
でも、一定の確率で必ずミスを犯す
育成にすごくお金がかかる
出来上がるのは結局融通のきかない専門バカ

で、現場で働かせようとすると

機械なので責任を負うことはできない(人間の「上司」が必要になる)
運用コストは専門家を雇うより(うまくいけば)ずっと安い(ここで投資を回収)
研修が必要になるたびに、ビッグデータと専門家が必要になる(=高くつく)

結論、すごいんだけど微妙なところも多い

実際、今AIを導入してる企業・組織を見ても、話題作りとイメージアップと株価上昇が目的、という感じだし・・・。

もちろん、コンピュータとソフトウェアの進歩、IoTやロボティクスの組み合わせで、消えていく仕事はたくさんあるでしょう。でも、そんなの今に始まった事ではありません。そして、今回の話だけでも、どんな仕事から消えていきそうか、なんとなく見えてきますよね。労働者にとっての「おいしい仕事」は、投資家にとっての「無駄な出費」。忘れてはいけないのは、AI云々以上に、そんな昔からのコスト観のようです。

こんな感じかなぁ。

大学入試共通テスト国語はすごく変わったとも言えるし、全然変わってないとも言える


こんにちは、まなゲー池田です。

先日、2020年から始まる大学入試共通テスト、のプレテストが実施されましたね。
問題と解答が公開されていたので、予備校国語講師歴約10年(過去)の僕がやってみて思ったところをできるだけ簡潔(×雑)に書いてみます。

変わったところ

  • ・記述問題(大問1つ分)が追加された。
  • ・制限時間的にキツくなった

変わらないところ

身もフタもない言い方になってしまいますが…。

基本的に昔ながらのやり方で、どの問題も解ける

以上!!

というのは、さすがにアレなので、もうちょっとだけ詳しく。
複数の資料をみくらべさせられたり、誰かの意見ぽく選択肢が書かれてあったり、というのはあるものの、いずれも表面的な変化でしかなく、
漢字や語彙、古典の文法系をのぞき、文章や資料、そして問題分野選択肢の内容の「整理整頓」ができれば解けます。

記述問題も(当然といえば当然ですが)、きちんと採点基準を作らねばならない以上、解釈の余地のある問題は出せません。
問いに対する必要十分な解答になるよう、文章・資料から一部を抜き出し、指定の文字数に収まるようにまとめる練習で対応できます。

僕が現役で教えていた頃のやり方、そのまんまで十分対応出来る出題・採点基準となっていました。
採点基準を明確にして点数をつけねばならない以上、変えようがないんですね。
(もし回答者の意見などを答えさせるとすれば、それは「書いてあるかどうか」しか評価することができません。)

ただし、制限時間がキツくなったのは、大きな変化です。
このまま導入されるなら、時間内に回答を終えられない生徒さんが続出すると思います。
ある程度の反復練習を行って、読み・解きのパターンを持たないと大変そう。
その意味では、入試改革の目指す方向とは逆に、パターン認知力を問う方へと行ってしまっている感があります。

家庭でできること

予備校講師時代、いつも言っていたことですが、文系理系問わず、国語で点を稼げるとすんごく有利です。
(レベルが上がるほど、他の科目では差がつかなくなるのでなおさら…)
一方で、読書は好きなのに国語の成績はイマイチというのもよく聞く話。これも理由があります。

面白い「お話」をどれだけ読んでも、語彙は増えるかもしれませんが、文章を「整理」する力はあんまり育ちそうにありません。
また、語彙についても、お話の語彙と、説明文や論説文の語彙とは範囲が随分異なります。

読書の中に、少しでいいので説明的・論理的な文章が混ざるように仕向けていく。
そのために、科学(社会科学を含む)や時事問題に関心を持つように仕向けていく。
(これは本を読むこの場合、読まない子はとりあえずなんでもいいから読ませるところからになります。)

そのためには、親がまずそれを実行することです。そして話題にそれらを混ぜていく。
まぁまぁ面倒ですが、例えば僕は、寝る前に「自分が今読んでる本の面白かったところ」を読み聞かせしたりしています。

学校でして欲しいこと

本当いうと、学校でもうちょっとそういう文章を取り上げてくれたらいいんですけどね。
文学作品を読んで、クラス全員の「私の感想・意見」とか、良いんですけど、受験的には何の意味もないですから。
(それはそれでやってくれたら良いんですよ。でも分けて欲しいし、偏りすぎだと思う。)
それだったら、解釈の余地の少ない文章を読んで、それでも解釈が分かれる。なぜ分かれる。客観的なのはどの見方。など考える授業もして欲しいなぁと、すごく思います。すんごく。

開花を急ぐリスクも考えなければいけない

11月中旬。紅葉を背景に咲く、狂い咲きの桜。
美しく咲いても決して実を結ばないこの花から、僕らは何を学び得るだろう。

より早く、より高くと育てた大切な若芽が、見事な花を咲かせたその先には、苛烈な冬が待っているかもしれない。
花を咲かせることに、全力を振り絞ってしまったら、どうやってその冬に耐えられるのだろうか。

選択と集中は、ハイリスクな賭けだ。まばゆい成功例の足元に無数の屍が転がる。
子ども時代は、いつか当人が賭けに身を投じる日に向けて、じっくりあちらこちらへ根を伸ばす時だと思う。

どれほど甘美な成功も、一瞬後には幸福を減じてしまう。
より大きな成功だけがもたらす一時の至福を追い続ける。
そんな一生が冬のような生き方を我が子にして欲しいとは、僕には到底思えない。

僕は雪国の人間だから、冬の凜とした美しさはもちろん、それが他の季節をより美しくしているであろうことも知っているつもりだ。
けれど、冬がなくとも生き物は育ち、花を咲かせ、実を実らせる。冬なんてただのオプションだと思う。

もちろん、傍目にものすごくキツそうに見える積み重ねの日々が「冬」であるか否かは、当人次第であるけれど、その道へは、しかるべき日に、自ら選びとって踏み込むべきなんだ。

親の仕事は花を咲かせようとすることではなく、時に助け、時に突き放しつつ、しなやかで折れない強さを育てることだ。
改めてそう思う出会いだった。

モラトリアムこそが人をヒトにしたのかもしれない

学力や性質などが、どこまで遺伝によって決まってしまうのか、というのは教育に関わるものとして非常に気になるテーマです。

一方で生物学の世界では、遺伝子による説明が難しい部分についての研究も進んできていて、エピジェネティック(遺伝子外)と呼ばれる分野が確立されてきているようです。

その研究成果の一つに、とても興味を惹かれたので紹介したいと思います。

人とチンパンジーが遺伝子的にはほとんど変わらない(2%ほど)という話は、以前からよく知られています。では、最近いろんなところで活用されまくっている遺伝子組み換えの技術を使って、その2%の部分を同じにしてしまったとしたら、チンパンジーは人間になるのか?というとそうはならないようで、そのあたりが遺伝子「外」の問題らしいのですが、現在注目されているのは、どの遺伝子が、いつ頃、どのくらい、活性化されるのかの違いで、コツコツ試料を集めて、我々とチンパンジーの脳で、どのように遺伝子の活性状況が異なるのかを調べていくと、大人への成長を促す部分の活性化が起こるのが、チンパンジーと比べてとてもゆっくりだということがわかってきているようです。

遺伝子的にほとんど同じ、ほとんどを「全く」にしたとしても、チンパンジーは人にはならない、とすれば、この違いこそが、人を人にしたのかもしれないということです。

もちろん、研究はまだまだ途上にあるものでしょうし、このことから直ちに日々の子育てや家庭教育をどうの、というのは性急にすぎるでしょうが、子どもたちが急いで大人にならなければならないような環境圧をかけることは、知的な成長を妨げる可能性があるかもしれない、というぐらいを頭のどこか、時々思い出せるぐらいの場所に、改めて置いておくのは悪いことではないように思います。

私たち親は、つい子どもが早めに成長することに安堵を覚え、それを期待し、ゆっくりだったり、停滞や逆行が起こると不安や落胆を感じてしまったりするわけですが、それにグッと堪えて、寄り道や回り道を見守ることこそが、長期的な成長や到達点の高さへとつながるのかもしれません。そう思うと「うちの子ったら・・・」という気持ちも、ちょっと楽になるかも、しれませんね。