まなゲー授業@大阪市立宝栄小学校(2)

こんにちは、まなゲー池田です。

まなゲー授業@大阪市立宝栄小学校。2日目は「お勉強モンスターをデザインしてみよう」ということで、キャラクターデザインをしながら「自分と勉強」について考えを深めていく取り組みに挑戦してもらいました。

勉強と私

下のような図が表示されたプリントを配って、勉強と自分の関係をまずは「好き・嫌い」「大事・大事でない」でセグメント分けしてもらいます。

自分にとっての勉強に当てはまる箇所に○をつけてもらいますが、こちらの学校でも大半の子が右下の「嫌い・大事」のゾーンにマークしていました。後は右上の「好き・大事」ゾーンに数人、「好きとも嫌いとも言えない・大事」ゾーンに数人、1〜2人が左下の「嫌い・大事でない」ゾーンという感じでした。

マーキングはパッと直観的にやってもらって良いのですが、その後で必ず「なぜそう思うのか」理由を書いてもらいます。理由はまずとにかく何か書く、書いたらそれをできるだけ詳しく具体的にしていくように求めていきます。

「嫌い」→どうして?→「おもしろくないから」→どうして?→「字を書くのが嫌だから」→じゃあもしノートを書かなくてもよかったら?→「嫌じゃないかもしれない・・・」→そしたら嫌いなのは勉強じゃなくてノートってことかな?→「うーん・・・」

そういう具合で、机間巡視しながら声をかけていったりもします。
書き終わったら、隣近所の人と意見交換もしてもらいます。他人の考えを否定するのは禁止、ひとまずそうかと聞く、という制限をかけました。

お勉強モンスター召喚の儀式

意見交換が済んだら、いよいよモンスター召喚の儀式です。
「召喚の儀式」なんて芝居掛かった名付けですが、大型モニターに「魔法陣」を映し出すのと合わせてやると、ぐっと盛り上がってきます。

が、まだすぐには描かず、まずは言葉で考えてもらいます。下図のような対義語が色々並んだプリントを配布して、「勉強と私」から出てくるモンスターがどんなやつか、イメージしてもらいます。

描いてみよう

著作権や描き方に関する注意を終えたら、ようやくお絵描きスタートです。
イラストと合わせて、キャラの名前や性格といった設定も記述してもらいます。
「勉強モンスター紹介」のコーナーでも紹介しているように、ここに子どもたちの気持ちや、キャラクターに託された思いが見えたりするので、毎回とても興味深いです。

今回も、72体の個性的な「お勉強モンスター」たちが誕生しました。
託された思いとともに、子どもたちが勉強と関わっていく上での一種の「偶像」というか、「お守り」のような存在になってくれたら良いなと思っています。

来週初めに、このモンスターたちを取り込んだ、彼ら彼女ら「専用」のまなゲーを持って、教室へ向かいます。みんなの反応を目の当たりにするのが、今からとても楽しみです。

「脱やる気」でやれる自分に近づく(2)

こんにちは、まなゲー池田です。今日は「脱やる気」シリーズの2回目。
前回、私たちの「意識」(意思もここに含まれます)は、株式会社ジブンの社長ではなく、野生丸出しのワンマン社長「無意識」さんの、広報担当程度の存在でしかないというお話をしました。自由意志を尊奉する現代に育った私達にとって、極めて不快な事実です。しかし、これを受け入れることが「脱やる気」への第一歩となります。

はびこる「やる気原理主義者」

なんでもやる気のせいにする人のことを、僕は「やる気原理主義者」と呼んでいます。すぐに「やる気があるのか!」「やる気が足りてないからだ!」みたいなことを言い出す人たちです。いっぱいいますね。特に何らかの意味で「指導者」と呼ばれる人に多いのですが、これはなぜか、その人たちにとって「簡単で都合が良い」からです。

見ることも測ることもできない「やる気」なんていう謎なモノを持ち出して、他者の行動や結果の欠点・不備を指摘し、「やる気がないからだ!」とか「やる気が足りないせいだ!」とか、そんなのはバカでもできることです。

そんな人ばかりなのは、結局その人たちが、「なぜやれるのか・なぜやれないのか」について本質的なことは何も知らないからです。宗教的な原理主義者が、分からないことや不合理をなんでも神さまや信仰のせいにするのと同じです。

やれる・やれないを全て「やる気」の問題にしてしまえば、行動の不足も工夫の不足も全て「当人のせい」にすることができます。指導者としてこんなに楽なことはありません。

結局「やる気」ってどんくらいのもん?

株式会社ジブンが「無意識」社長がなんでも勝手に決めてしまうワンマン会社だとわかれば、「やる気」の正体も見えてきます。

意識広報は、決定権はないものの、「やるべき(なのに)」とか「やったほうがいい(のに)」などと、懸命に考えています。

無意識社長が意識広報の考え通りのことを「やる」と決めたら、意識広報は「やる気出た!」と内外に向けて説明し、「やらない」と決めたら「やる気出ない・・・」と説明する。「やる」の源泉が「やる気」であるという考え方とは真逆になってしまいますが、どうもこのあたりが事実に近いようです。

「負のやる気」についても考えてみる

やるべきと思っていることができないのと同様に「やめたほうが良い」「やってはいけない」と思っていることを、やめられない、ついやってしまうというのも、また我々の日々の現実であります。人間の意思(意識)がいかに小さな声しか持たないか、ということを考えるには、こちらのほうがむしろすっと理解できてしまうかもしれません。

そういう時、私たちは自分の内外に向けて、なんとか理由をこじつけようと努力する羽目になります。言い訳ですね。「やめなきゃ」と思っていることをしてしまった場合など、そこにまともな理由などあるわけがないのですが、なんとかこれをこねくり出そうと努めてしまうのが、意識広報さんの悲しい習性です。

やる気 → やれる は偶然の一致に過ぎない

こう考えてくると、「やる気」と称されるポジティブな感情は、実は、意識広報さんの「やるべき」と一致する決定を、たまたま無意識社長が下してくれた、その時に感じる良い気分をそう呼んでいるだけなのではないかという感じがしてきます。

妙な言い方に聞こえるかもしれませんが、つまり、「やる気出た!」もまた、無意識社長の決定に対する一種のこじつけ、後付けに過ぎないということです。

意識広報の考えと、無意識社長の決定の傾向がうまい具合にあった場合「自分にはやる気がある。だからやれる」と、逆にずれてしまった場合「自分にはやる気がない(足りない)からできない」と感じる場合が多いわけですが、それらは実は空想の産物にすぎないというわけです。

従来の「やる気」に近いもの

「やる気出た・やる気でない」がともに、「やる・やらない」決定に後付けされた情報でしかないとすれば、これまで「やる気」と呼ばれてきたものに一番近いものは何か。それは意識広報さんのか細いつぶやき「やったほうがいい」「やめたほうがいい」だということになるでしょう。

「やる気が足りない」から自由になる

言い換えると、「やるべき」「やらなきゃ」「やめるべき」「やめなきゃ」この気持ちが意識にあれば、それは「やる気」はある、ということになります。そして、「ある」さえ満たせば、もうその量や強さは問題ではありません。

くり返します。もし何かに対して「やらなきゃ」という思いがあるなら「やる気」はもう充分です。やる気は「ある」のです。

今「やれて」いようがなかろうが、それはもう「やる気の問題」ではありません。やる気の有る無し、足りる足りないから自由になって、どうやってあのワンマン社長を思い通りに動かしていくか、それを考えていくことにしましょう。

やる気があるとかないとか、出るとかでないとか、そんな無駄な考えから、今日自由になりましょう。

「脱やる気」でやれる自分に近づく(1)主導権を持たない現実を受け入れる

こんにちは、まなゲー池田です。
子どもと勉強に関わる仕事を続ける中で、ずっと考えていることがあります。・・・「やる気」と「やれる」って、あんまり関係なくないか??ってことです。「やる気」について知れば知るほど、どう考えてもそうなんです。が、しかし、世の中謎の「やる気信仰」に溢れています。このせいで無駄に苦しむ子ども(大人も)がすごく多いように思います。

そういうことで、この訳のわからん「やる気信仰」から抜け出して楽になって、できるだけ「やれる」自分になっていこうというシリーズです。何回やるかわかりませんが、基本的に客観的な根拠のある話だけします。それらをベースに考え方と行動調整のことだけお話しします。いつの間にか神様とかが出てきたり、サプリメントを売りつけられたり、とかそういう心配はありません(笑)

こういう話は長いと疲れるので、なるべく短く切っていきます。初回のテーマはこれ。

私が何をするかを、私は決められない

無意識、と言ってもフロイト先生が言ってた今となっては相当胡散臭いアレではなくて、もっと最近になって脳内の様子が色々観察できるようになってからの「無意識」に関する話です。

私たちは普段、自分の行動を自分でコントロールしていると思い込んでいますが、どうも全然そうじゃないぞということが、様々な研究から、わかってきてしまいました。

私たちの脳は、大まかに言うと、魚類や爬虫類と同じような「古い脳」の上に、高度に進化した動物が持つ「新しい脳」をかぶせたような作りになっています。

私たちが通常、心あるいは「意識」と呼んでいるものは「新しい脳」の方で活動していて、日々あれこれ考え、目標や計画を立てたりして、「あるべき」とか「やるべき」とか、「正しい」とか「間違い」とか色々思い悩んでいます。

一方、「無意識」はというと、古い脳の中に住んでいて、目前の物事について「スキ!」か「ヤダ!」か、それだけを考えています。先のことなど全く考えませんが、以前のことは実によく覚えていて、「これは前にイヤだったヤツだからヤダ!」などと一瞬で判定を下します。

そして、困ったことに、「無意識」は常に「意識」より手前にいて、より早く情報を受け取り、より早く決定し、より早くカラダに命令を下してしまうのです。

社長のつもりでいたが、実は広報さんだった

例えば、手をのばしてテーブルの上のコップを取る。そんな単純な行動でさえ「無意識」主導で行われているらしいことが判明しています。近代以降「わたし」は「意識」あるいは「理性」がコントロールすると信じられてきましたが、行動決定権は「無意識」にガッチリ握られてしまっていたのです。「意識」にできるのは、行動に理由を後付けすることと、後は、「こうしたほうがいいんじゃないかなー」と控えめに提案する程度のことでしかないらしいのです。

株式会社ワタシの社長だと思われていた「意識」は、実は、動物的勘だけで突き進むワンマン社長(無意識)の決定に、それらしい体裁を整えて社内外へ発信する「広報さん」でしかなかった。という驚愕の現実が見えてきました。そりゃ、思い通りにワタシが動かなくて当然です。何しろハナからそんな権限を持っていなかったんですから。

驚きの事実を突きつけられた、元自称社長の広報(意識)さん。さて、ここからどんな手を打っていくのでしょうか。