「見る」ことの大切さ

ウチにはいま1歳前の娘がいますが、一人でおもちゃや絵本で遊んでいても、時々こちらを向いて、私たち親が自分を「見ている」ことを確認しています。

目を合わせて笑みを返してやるとまた手元に注意を戻すのですが、こんなに小さな子供でも、親に「見られている」という事実そのものに一定の安心感を得ていることに、「見守られている」感の大切さを改めて感じます。

親子関係からはなれて、教室作りに成功していると思われる先生方は、やはり子供たちに「自分たちをちゃんとみてくれている」と評価されています。もちろんこの「見る」と「監視」とは全く異なるものです。「見る」は安心と信頼を、「監視」は不安と対立を、まったく逆の結果を生み出します。そもそも「見ていない」のは論外として、一生懸命子供を見ているつもりが、いつのまにか「監視」になっていないか。常に自問して行かなければなりませんね。

風邪

現在はかなり回復しましたが、やられてしまいました。

2つ前の投稿で睡眠時間の調整の話を書いていますが、結局「今日はちゃんと長めに睡眠とって取り戻す日」というのをきちんとできなかったのが体調を崩すにいたってしまった原因だったように思います。

「今日は早くねるぞ」と家族の前で宣言したりもするのですが、いざ自室に入ると、「メールチェックだけ」とついついPCを起動してしまい、後はついつい・・・の繰り返しでまた深夜から明け方に・・・。もちろん必要があってやっている作業が多いのですが、明らかに無駄な「息抜きのつもりで消耗」というものが含まれていました。

過去にも同じことがあり、そのときも深く反省しましたが、またやってしまっているということは、「ついつい起動」の段階でアウトと考えるべきで、「起動しない勇気」「メールチェックしない勇気」を持たねばなりませんね。と、書いてきてもっと書きたいことが思い浮かんだのですが、まだまだ回復していない状態ですから、ここは「書かない勇気」を発揮して寝ようと思います(笑)。

患部の自覚

最近ちょっと首・肩の痛みが深刻になってしまったため、マッサージに通っているのですが、そこでのやりとり。

先生:「どうです?調子は?」 

僕:「お陰様で首はかなり楽になってきたんですが、なんだか二の腕がやたらと痛くなってきたんです。。。」

先生:「あぁ、それきっと、もとから痛かったんですよ。『一番痛いトコ』の順番が入れ変わってそう感じるようになったんですね」

なんと、首・肩が痛すぎて今までちゃんと感じられていなかったのだというのです。これは非常に興味深い発見でした。我々は自分自身の身体の痛み・ツラさについてさえ、その程度しか把握できないのだということです。ましてや他人や物事について「~が悪い」「~が原因」などと安易に予断することがいかに危険かということを、文字通り「身をもって」体験できました。

何かを治そう・改善しようと思う人間が、常に念頭においておくべきことのように思います。

まぁ、発見はもう十分なので、身体の方はさっさと改善されて欲しいものだと切実に思いますが(笑)

模索

受験生に限らず、やりたいことやらねばならないことがあると、時間がいくらあってもたりませんよね。そうなると大体「睡眠時間」が問題になってくるものではないでしょうか。何しろ1日1時間睡眠時間が減れば1年で365時間、ざっと15日分、丸々24時間×15日分ですから、起きている時間分だけで計算すればさらに数日分ふえる はずです。これはデカイですよね。

このところ、ベストの睡眠時間を模索して色々試しているのですが、なかなかうまくいきません。

一般論としては6時間~8時間だという話をよく聞きますが、僕の場合あまり長く寝ると背中や肩などあちこち痛くなってしまいますし、頭もぼんやりしてしまいます。そういう意味での体調からいくと僕の睡眠時間は4~5時間がベストなようなのですが、この睡眠時間を数日続けると、食後などに「眠い」ではなくて「寝てしまう」という状態になってしまいます。食後だけなら良いのですが、波があるようで唐突に眠気がやってきてしかも抗えません。運転中などに波が来ると大変危険です;;

そこで4~5時間を数日、危なくなる前にもう少し長く眠る日を一日挟む、というのが答えなのではないかと考えているのですが、試してみること自体がなかなか難しく、結論をみません。最近の試みは失敗だったのか、これを書いているたった今も非常な眠気の波にさらされています;;

さらに、単純な睡眠時間の問題ではなく、就寝時間の早い遅い、食事の量や質もかなり影響しているようなので、なかなか自分なりのベストにたどり着くことができません。ひとまず「短い睡眠」と「少ない食事」がキーワードかなと見えてきてはいるのですが・・・。

「やらない」という選択

昨年の教訓をいかすべく、「やることを絞り込む」というのも今年の重要なテーマの1つなのですが、これがなかなか難しくて、ついつい「あれもやっておいた方が」「これもやらないわけには・・・」という気持ちが起こってしまいます。

「やるべきこと」と「やらなくてよいこと」の2分なら良かったのですが、零細体制ですから、「やらなければならないこと」と思われる項目すら、全てに取り組むことはできません。きちんと優先順位をつけて、場合によっては「あえて今はやらない」という選択をしなければならないわけですが、これがなかなか・・・

 ・・・と悩んでいる時間自体がまた全体を圧迫・・・なかなかままなりませんね。

熱心に語られるということ

今日、信号待ちでたまたまとなりになった中学生二人づれが、なにやら熱心に話をしているので聴き耳をたてていると。カードバトルの話題でした。

キャラクターの名前やステータス、スキルやら他のカードとの関係など、非常に複雑な内容を実に良く覚えていて、スムーズに、かつ楽しそうに話していました。聴いているとそのカードゲームがとても魅力的なものに感じられてくるほど。そこらの単語集を量的には優に上回るカードに関する情報がかれらの頭の中に収まっていることは想像に難くありません。しかも、進んで、楽しんで、それを覚えたはずなのです。

こんな雰囲気で、例えば数学の問題の攻略法を教えあう姿・・・なかなか街角で出会うのは難しそうですねぇ;;

ちょっと楽しく、ちょっと便利に

今日は家族でIKEAに行ってきました。

広大なショールームに、毎日の生活がちょっと楽しくなりそうな、ちょっと便利になりそうな家具や小物が大量に展示されており。「これは~やね」「こういうのが~にあるといいねぇ」などと話しながらあっという間に一日の大半を店内で過ごしてしまいました。

「まなゲーらんど」もこんな感じで、毎日の勉強について、ちょっとやる気がでる、ちょっと便利になる、もうちょっとがんばれる、そんなコンテンツがてんこもりで、いつのまにやら結構勉強しちゃってる。力ついちゃってる。そんなサイトにできたらなぁ。がんばろう。

カッコイイことは大切

子供向けの学習ゲームをつくっていながら、我が家には現在就学年齢の子供がおりません。(0歳児ならいますが・・・)なので、放っておくと、今時の子供たちがなにに熱中し、どんな遊びをしているのかが見えなくなってしまいます。そこで、例えば子供向けのマンガ雑誌なんかを買ってきて読んだりもするのですが、先日は「別冊コロコロコミック」を読みました。

まぁ、なんといっても驚くのは、おもちゃやゲームなどとの所謂「タイアップ」ものの占める割合がすさまじく高いこと。しかし、これをけしからんなどと言うつもりは全くありません。

経済の問題としてみれば、子供たちも立派な消費者で、子供たちの時間のどれだけを、それで遊ばせるか、そのことを考えて過ごさせるか、ということが家計からオカネをどれだけ引き出せるか、ということに直結してきます。子供をとりまくあらゆるメディアや遊びは、この「時間」の奪い合いに大量の投資をおこなっています。その1つが「タイアップもの」コミックとしてあらわれているということだと思います。

また、こうした取り組みの重要なポイントのひとつとして、その遊びに「強い」こと「詳しい」ことが、「カッコイイ」「ステキな」ことであると認識させること。というのがあると思います。この価値形成に成功すれば、みんなこぞってその遊びに取り組むことになり、製品の市場価値が飛躍的に伸びるというわけです。

翻って、我らが「勉強」にはこういった努力、少なくともその成果と思われるものはまるで見当たりません。。。

勉強ができる子は、何十年も前から相変わらず悪者か主人公の引き立て役と相場は決まっていて、たまに、勉強「も」できる知性派ヒーローがいても「勉強」そのものは彼の魅力のもととしては扱われません。

勉強が「できる」のがカッコイイ、でなくて良いと思うのです。いや、さらにゆずって「できる」子キャラは今後も引き立て役でもよしとしましょう。ただ、難しいものにがんばって取り組んで、それを身につける、という意味で「勉強をがんばる」ことはカッコ良くあってほしいと思います。そもそも、とてつもない困難の連続に直面して、それを見事乗り越えてみせるマンガやアニメの主人公達が、学校の勉強程度の課題から逃げ出してしまうような状況は、本来は不自然なハズなのですが。。。こう書いている私自身が、大活躍のあと机に向かって宿題をしている主人公という絵にはやはり多少の違和感を感じてしまいます。なぜ、そういうキャラクターが魅力的という型ができてしまったのでしょうね。

とても魅力的で、大活躍で、でも勉強もがんばっちゃうカッコイイ主人公がでてこないかなぁ。(なんにでも全力投球の不器用なキャラというのは過去にも結構良いのがいますね。今もいるのかな。)

勉強も子供たちの「心を得る」ことを真剣に考えなければならない所に来ているように思うのです。

「まなびあい」を勉強してきました(3)

「まなびあい」を実践する教室において、先生が何をするかといえば「場を作る」役割を果たすわけです。

全員が互いに尋ね・教えあって、みんなで目標をクリアしていく、そんな雰囲気の教室。いいじゃないですか。

「全員が」「みんなで」というのが非常に重要で、この雰囲気は特に勉強に苦手意識のある子にとって、できない・きらい・やらない・さらにできない・さらにきらい、というスパイラルにはまり込まない為の強力な助けとなることでしょう。

点数として数値化されるものである以上、成績には必ず順位があり、最下位の子が生じます。だからといって、その最下位の子が、その科目を「好き」だと思っていけないはずがありません。最下位の子が「できない」子である必然性もありません。まだうまくまとめられませんが、ここからなにか大切なことが見えてきそうな気がします。

また、「場を作る役割」なんて言い方をすると、難しそうですが、「クラス全員が満足してのびる授業を毎時間きっちり提供する」、などという課題に比べたら随分とハードルが低そうです。担任の先生の「あたり、ハズレ」なんてことが云々される昨今ですが、教師の才能に依存しないノウハウとしての魅力も「まなびあい」にはありそうです。

しかも、最初にがんばって「まなびあう」環境をつくれば、先生の負担はどんどん減っていくわけで、この点も重要だと思いました。どんなにすばらしいものでも、大変で、その大変さが減っていかないとしたら、それに取り組み続けていくことが出来る人は殆どいないのですから。

「まなびあい」今後も注目していきたいと思います。

「まなびあい」を勉強してきました(2)

昨日の「「まなびあい」を勉強してきました(1)」の続きです。

「先生は教科書を読み上げることも、板書しながら説明することもありません。」と説明しましたが、もちろん先生が「何もしない」ワケではありません。先生は「クラスを見て」います。特定の児童をじっと見るのではなく、クラス全体を見ながら「きっかけ」を見落とさないよう構えています。初日ということで、ついつい普段手のかかる子に注目してしまいそうにもなりますが、がんばって「全体」を見て行きます。

数人の子供たちが課題をクリアしました。クリアし終えた子供たちは当然ながら自分の席でじっと座ったままです。そこへ先生が声をかけます「『みんなが出来る』のが目標だよ。自分だけ出来てもダメなんだよ。一人でも出来ないままだったら失敗だよ。」・・・すると、終わった子供たちの中から、周辺のまだ終わっていない子供に教えてあげようとする子供が現れます。そこですかさずその行為を賞賛します!!

 これをきっかけに「僕(私)も先生にほめて欲しい(自分も誰かに教えてあげよう)」「はやく出来るようになって自分も教えてあげる側になりたい」の連鎖反応が教室に広がり始めます。その広がる様があまりに劇的なので、却ってにわかには信じられないような気持ちになってしまうほどでした。