これから「学歴」ってものはどう扱われるようになっていくのか

学校へ伺って、子ども達と勉強について話し合ったり、意見を聞いたりすると、親世代の影響というか「学歴社会」の影がまだまだ非常に色濃く見られるなぁと感じます。なんというか、そこだけやけに古臭いと言いますか・・・。

これからこの「学歴」ってやつは、どのように扱われるようになっていくのか、ちょっと考えを整理してみようと思います。

協働を可能にする記号としての学歴

人は「微笑む」生き物です。他の生物はそんなことはしません。
なぜ人は微笑むのか。それは「私は安全ですよ。あなたに危害を及ぼすものではありませんよ」と相手に伝えるためです。

人は「大きな白目」を持つ生き物です。白目を持つことは相手に目の動きを悟られ、心を読まれることに繋がります。心理状態を読まれることは生存上不利になるので、他の生物は白目をほとんど持ちません。我々は敢えて心を読ませることで、互いに「大丈夫ですよ」と伝えあっているわけです。

学歴の話のはずが、微笑みだの白目だの、関係のなさそうな事ばかり述べていますが、ここで確認したいのは、学歴というものは、これら同様、人類が赤の他人と付き合い協働していく上での一つのサインとして機能している(してきた)ものだということです。

「私は一定の理解能力と処理能力を備えた人間ですよ」
「退屈や理不尽に一定以上の耐性があって、我慢のきく人間ですよ」
「だから、この仕事に私を採用して大丈夫ですよ」

例えば、こんなことを伝える(受け手側に期待させる)記号です。
このサインを受け取った側が、それを「評価」して、採用だったり依頼だったりという「リスク」を取ることを受け入れてくれることを期待した記号です。

受け取る側としては、限られた時間の中で、相手を評価して決断しなければならない。その時に、「ある程度信頼できる記号」であってくれることを「学歴」に期待してきたわけです。

この記号の信頼性がかなり微妙なものであることは、ずっと以前から言われてきました。それでも学歴がここまで価値を(減らしつつも)保ってきたのは、代わりになるより良いものがなかったからに過ぎません。

評価経済へ向かう情報社会が学歴の存在意義を脅かす

昨今、いよいよ学力・知的能力・知識・技能に加えて、人格的特性や政治的信条、経済的状況にいたるまで、あらゆる個人の「能力・信頼・信用」情報が、ネットを通じてやり取りされるようになりました。これらの情報を数値化するサービスも次々と出現しており、一部ではそこでの評価がすでに通貨にも似た取引上・生活上の価値を持ち始めてさえいます。

誰もが極めて詳細かつ客観性と検索可能性の高い「私はこんな人間です」というデータを伴って世間を歩き回り。初めて出会う誰かとやりとりする時でも、必要に応じて互いその情報を引き出す(分析したり分かりやすくまとめたりはAIがやってくれます)ことができる世界が目前に迫っています。(ビジネス的需要もあってこの流れはいよいよ加速するでしょう)

これが普通になった時、誰が「学歴」を重視するでしょうか。かつて「学歴」という記号に期待されていたもの、その中身そのものの方を、具体的に分かりやすく容易に知ることができるというのに、敢えて信ぴょう性の低い「記号」に期待してリスクを負う人など、あっという間にいなくなってしまうでしょう。

大学入試改革の足元で急速に進む大変動

「学歴」が社会的価値を失っていくに伴い、教育機関は「学歴付与」という機能を失っていきます。そして、個々の学生を如何に育成したかを細かく問われるようになっていきます。「○○大出のAさん」から「Aさんの出た○○大」という評価の方向へと逆転していくということです。さらに、評価対象となる単位は「大学」ではなくなり「研究室」や「プロジェクト」へと変化していくでしょう。この流れの中で、個人の評価も「どのプロジェクトでどのような役割を果たしたか」をより細かく評価されるようになり、大学はそれらプロジェクトが立ち上がる「場」として評価されるようになります。そしていずれ、情報サービスのさらなる発展が「場」としての大学の存在意義も否応なく低下させていくことでしょう。

2020年、大学入試改革とか言っているその足元で、根底が覆らんとしていることも忘れてはいけません。

特定の試験の価値が暴落し、現時点での力が評価されるようになる

この変化は「学び続ける個人」にとって大きな恩恵をもたらします。

高校入試も大学入試も、全て「その時点での学力」を表す指標でしかなくなります。個人に関するあらゆる評価が刻々と更新され続ける世界にあっては、「〜時点での評価」を常に書き換えることが可能になります。入試の失敗は「とある試験」で成績が振るわなかったという評価に過ぎなくなっていきます。ソーシャルな失敗は尾を引くようになってしまうでしょうが、学力・知識・技能の不足は努力によっていつでも補うことが可能になります。

入試に失敗したら人生終わり、的な妄想から解放されるのは、子ども達にとっても保護者にとっても非常に良いことだと思います。

いつ何を学ぶかの自由を得て、あるべき状態へ

もちろん、学力・知力が今後ますます重要な能力となっていくことは変わりません。勉強は相変わらす極めて重要です。でも、「何歳の何月までにどの水準に達しているか」という意味のない縛りに追い立てられることは、なくなります。この縛りから真に解放された時、小中学校も家庭も本来の最重要課題である「意欲や興味関心を守り育てていく」というところにようやく立ち帰れるのではないかと期待しています。

勉強モンスターデザインと著作権など

まなゲー授業で子ども達にお勉強モンスターをデザインいてもらう時、毎回著作権の話を交えて、必ず自分のオリジナル作品を描くようにと伝えることにしています。

ゼロにはならないアウトな作品たち

が、やはりまれに、あきらかにアウトなヤツを描いてしまう子がでてしまいます。(僕が気がついた範囲での事になるので、実際はもっといるかもなんですが)

具体的には、某植物ぽい名前の女の子が主役の人気漫画にでてくるダンボール製のNHKでもやってたアレとか、超人気海賊マンガの誰でも知ってるシンボルマークとか、、、気づかないわけないだろー!っていうようなやつ。

考えられる対応案

こんな時、どうするか少し迷います。選択肢としては、

(1)著作権侵害になる作品があったとして、アプリごと公開を取りやめる
(2)問題のあるキャラクターのみをアプリから削除する(登場させない)
(3)先生とやりとりして、再提出をお願いする

があると思います。しかし、(1)をやってしまっては3コマ目に支障が出ますし、著作権について教えることが取り組みの主目的ではありませんので却下。

現実的なのは(2)か(3)なんですが、(3)はかなり手間がかかります。先生に説明して、先生からその子に話してもらい、時間を割いて描きなおしてもらって、それをまた僕の手元に送ってもらって、スキャンしてトリミングして・・・時間的なロスがすごいです。(2)でいいかなーと思う時もあります。

でも結局、今までのところ毎回(3)にしています。

毎回(3)を選ぶ理由

ひとつには、結局きちんと周知しきれなかった僕のせいであるということ。

そして何より、「自分と勉強を見つめ直しながら描く」ということに導けなかった(これもやはり僕の)せいだということに尽きます。それが出来ていれば必然的にオリジナルなキャラになるはずですからね。

そうして(先生方にもお手数をおかけして、申し訳なく思いつつ)、忸怩たる思いで作業に臨むことになります;;
この「まだまだ足りてないなー」という感じは、著作権侵害になるならないに関わらず、「あ、このキャラクターは完全に「描きたいキャラを描いた」になっちゃってるなぁ」と感じる時に、いつも思うことでもあります。

勉強モンスターたちに期待すること

それでも、「自分の描いたキャラクター」が「ゲーム」に登場することは、ゲーム好きの子、中でもとりわけ男の子には大きな興奮をもたらすようです。3コマ目の「まなゲー体験2」はいつも歓声飛び交う中、ドリル問題を「攻める」子ども達でいっぱいの空間となります。

この勉強と結びついた「強い快」経験が彼の心に一種のアンカーのように重みを留め、時折でも「退屈な勉強をゲームのように遊ぶ」という気分を、そういうことができる力を自分が持っているということを、思い出させてくれたら・・・。

目を輝かせて、まなゲーに取り組んでくれている子供達を見ながら、毎回そんな気持ちになるのでした。

政府が定める「AIの7原則」はAIブームを失速させるかもしれない

政府の「人間中心のAI社会原則検討会議」が、AIに関する7つの原則をまとめました。

  • AIは人間の基本的人権を侵さない
  • 誰もがAIを利用できるよう教育を充実
  • 個人情報を慎重管理
  • AIのセキュリティーの確保
  • 公正な競争環境の維持
  • AIを利用した企業に決定過程の説明責任
  • 国境を越えてデータを利用できる環境を整備

今回、特に注目して触れたいのはこの2つ

  • AIは人間の基本的人権を侵さない
  • AIを利用した企業に決定過程の説明責任

この2つは、AIの活用に大きな制限を加えることになると思います。

理由のないものの理由を説明せよという要求

というのも、今のAIはビッグデータを力技で解析しまくって、使えそうな相関関係を発掘しては色々試してみる、という感じの仕組みになっていることが多いのですが、例えばAとBに「相関関係がある」ということはわかっても、「なんでそうなのか」は通常わからないのです。

それは、AIの限界というよりも、統計という数学的手法の限界だと言えます。

しばらく前に、AIが囲碁のチャンピオンに勝って話題になりましたが、AIは人間から見ると全く無意味に見える手をちょいちょい打ってくるらしいのです。そして、そのAIを開発・育成した人にも、「なぜAIがそのように結論したのか」は厳密にはわからないのです。

ビッグデータを用いた研究には実にいろいろあって、例えば、顔写真だけを見てその人物の暴力的傾向や犯罪を犯すリスクを判定しようとする研究などもあり、実際に幾つかの外見的特徴とそれらの傾向やリスクとの間に、高い相関関係が見出されました。もちろん、この場合も、なぜそこに相関関係が生じるのか、についてはわかっていません。

なんでか全くわからないけども、そこに相関関係がある、その情報を用いることで、ビジネス上の利益があったり、不利益を被るリスクを減らせたりする。だから使っちゃおう、というのが許されるか否か。この差は非常に大きい。

今回示された方針がどの程度の厳密さと強制力を今後持っていくのかは未知数ですが、「決定過程の説明責任」と言われても、「そんなの誰にもわかりません」となるケースは多いでしょう。「じゃあそのサービスは使用禁止ね」ということになれば、AIを使って様々な「評価」を特に個人や人の集団に対して行おうとしている取り組みには大きなブレーキとなるでしょう。

責任能力のない知性の責任を誰が取るのか

例えば、如何に統計的に有意であったとしても、解雇や不採用の理由が「顎幅が一定以上に広いから」では、当人的には到底受け入れられないでしょうし。その説明が「決定過程の説明責任」を果たすものだと言えるかも、甚だ疑問です。

評価された側が、AIを利用した根拠のよくわからない評価によって不利益を被った、とか不当な評価を受けて基本的人権を侵害された、などと主張した場合、それが妥当なものであると説明する責任を負わされる、というのは導入を検討する企業にとって、相当面倒だし、怖い話だと思われます。

少なくとも今後「これヤバそうだからやめとこう」となるプロジェクトは一定でてくるでしょう。

「責任能力の無い知性」という厄介な代物をどう扱い、誰がその責任をべきなのか、ということが明確に問われ始めています。今後の動向に要注目ですね。

大学入試共通テスト国語はすごく変わったとも言えるし、全然変わってないとも言える


こんにちは、まなゲー池田です。

先日、2020年から始まる大学入試共通テスト、のプレテストが実施されましたね。
問題と解答が公開されていたので、予備校国語講師歴約10年(過去)の僕がやってみて思ったところをできるだけ簡潔(×雑)に書いてみます。

変わったところ

  • ・記述問題(大問1つ分)が追加された。
  • ・制限時間的にキツくなった

変わらないところ

身もフタもない言い方になってしまいますが…。

基本的に昔ながらのやり方で、どの問題も解ける

以上!!

というのは、さすがにアレなので、もうちょっとだけ詳しく。
複数の資料をみくらべさせられたり、誰かの意見ぽく選択肢が書かれてあったり、というのはあるものの、いずれも表面的な変化でしかなく、
漢字や語彙、古典の文法系をのぞき、文章や資料、そして問題分野選択肢の内容の「整理整頓」ができれば解けます。

記述問題も(当然といえば当然ですが)、きちんと採点基準を作らねばならない以上、解釈の余地のある問題は出せません。
問いに対する必要十分な解答になるよう、文章・資料から一部を抜き出し、指定の文字数に収まるようにまとめる練習で対応できます。

僕が現役で教えていた頃のやり方、そのまんまで十分対応出来る出題・採点基準となっていました。
採点基準を明確にして点数をつけねばならない以上、変えようがないんですね。
(もし回答者の意見などを答えさせるとすれば、それは「書いてあるかどうか」しか評価することができません。)

ただし、制限時間がキツくなったのは、大きな変化です。
このまま導入されるなら、時間内に回答を終えられない生徒さんが続出すると思います。
ある程度の反復練習を行って、読み・解きのパターンを持たないと大変そう。
その意味では、入試改革の目指す方向とは逆に、パターン認知力を問う方へと行ってしまっている感があります。

家庭でできること

予備校講師時代、いつも言っていたことですが、文系理系問わず、国語で点を稼げるとすんごく有利です。
(レベルが上がるほど、他の科目では差がつかなくなるのでなおさら…)
一方で、読書は好きなのに国語の成績はイマイチというのもよく聞く話。これも理由があります。

面白い「お話」をどれだけ読んでも、語彙は増えるかもしれませんが、文章を「整理」する力はあんまり育ちそうにありません。
また、語彙についても、お話の語彙と、説明文や論説文の語彙とは範囲が随分異なります。

読書の中に、少しでいいので説明的・論理的な文章が混ざるように仕向けていく。
そのために、科学(社会科学を含む)や時事問題に関心を持つように仕向けていく。
(これは本を読むこの場合、読まない子はとりあえずなんでもいいから読ませるところからになります。)

そのためには、親がまずそれを実行することです。そして話題にそれらを混ぜていく。
まぁまぁ面倒ですが、例えば僕は、寝る前に「自分が今読んでる本の面白かったところ」を読み聞かせしたりしています。

学校でして欲しいこと

本当いうと、学校でもうちょっとそういう文章を取り上げてくれたらいいんですけどね。
文学作品を読んで、クラス全員の「私の感想・意見」とか、良いんですけど、受験的には何の意味もないですから。
(それはそれでやってくれたら良いんですよ。でも分けて欲しいし、偏りすぎだと思う。)
それだったら、解釈の余地の少ない文章を読んで、それでも解釈が分かれる。なぜ分かれる。客観的なのはどの見方。など考える授業もして欲しいなぁと、すごく思います。すんごく。

開花を急ぐリスクも考えなければいけない

11月中旬。紅葉を背景に咲く、狂い咲きの桜。
美しく咲いても決して実を結ばないこの花から、僕らは何を学び得るだろう。

より早く、より高くと育てた大切な若芽が、見事な花を咲かせたその先には、苛烈な冬が待っているかもしれない。
花を咲かせることに、全力を振り絞ってしまったら、どうやってその冬に耐えられるのだろうか。

選択と集中は、ハイリスクな賭けだ。まばゆい成功例の足元に無数の屍が転がる。
子ども時代は、いつか当人が賭けに身を投じる日に向けて、じっくりあちらこちらへ根を伸ばす時だと思う。

どれほど甘美な成功も、一瞬後には幸福を減じてしまう。
より大きな成功だけがもたらす一時の至福を追い続ける。
そんな一生が冬のような生き方を我が子にして欲しいとは、僕には到底思えない。

僕は雪国の人間だから、冬の凜とした美しさはもちろん、それが他の季節をより美しくしているであろうことも知っているつもりだ。
けれど、冬がなくとも生き物は育ち、花を咲かせ、実を実らせる。冬なんてただのオプションだと思う。

もちろん、傍目にものすごくキツそうに見える積み重ねの日々が「冬」であるか否かは、当人次第であるけれど、その道へは、しかるべき日に、自ら選びとって踏み込むべきなんだ。

親の仕事は花を咲かせようとすることではなく、時に助け、時に突き放しつつ、しなやかで折れない強さを育てることだ。
改めてそう思う出会いだった。

モラトリアムこそが人をヒトにしたのかもしれない

学力や性質などが、どこまで遺伝によって決まってしまうのか、というのは教育に関わるものとして非常に気になるテーマです。

一方で生物学の世界では、遺伝子による説明が難しい部分についての研究も進んできていて、エピジェネティック(遺伝子外)と呼ばれる分野が確立されてきているようです。

その研究成果の一つに、とても興味を惹かれたので紹介したいと思います。

人とチンパンジーが遺伝子的にはほとんど変わらない(2%ほど)という話は、以前からよく知られています。では、最近いろんなところで活用されまくっている遺伝子組み換えの技術を使って、その2%の部分を同じにしてしまったとしたら、チンパンジーは人間になるのか?というとそうはならないようで、そのあたりが遺伝子「外」の問題らしいのですが、現在注目されているのは、どの遺伝子が、いつ頃、どのくらい、活性化されるのかの違いで、コツコツ試料を集めて、我々とチンパンジーの脳で、どのように遺伝子の活性状況が異なるのかを調べていくと、大人への成長を促す部分の活性化が起こるのが、チンパンジーと比べてとてもゆっくりだということがわかってきているようです。

遺伝子的にほとんど同じ、ほとんどを「全く」にしたとしても、チンパンジーは人にはならない、とすれば、この違いこそが、人を人にしたのかもしれないということです。

もちろん、研究はまだまだ途上にあるものでしょうし、このことから直ちに日々の子育てや家庭教育をどうの、というのは性急にすぎるでしょうが、子どもたちが急いで大人にならなければならないような環境圧をかけることは、知的な成長を妨げる可能性があるかもしれない、というぐらいを頭のどこか、時々思い出せるぐらいの場所に、改めて置いておくのは悪いことではないように思います。

私たち親は、つい子どもが早めに成長することに安堵を覚え、それを期待し、ゆっくりだったり、停滞や逆行が起こると不安や落胆を感じてしまったりするわけですが、それにグッと堪えて、寄り道や回り道を見守ることこそが、長期的な成長や到達点の高さへとつながるのかもしれません。そう思うと「うちの子ったら・・・」という気持ちも、ちょっと楽になるかも、しれませんね。

子どもとゲームで悩んだら考えてみてほしいこと:その3

ゲームと暴力犯罪に、因果関係はありません。

暴力的なゲームをしたら子どもが犯罪者になってしまう!的な妄言が、いつまでたっても無くなりませんが、過去にハーバード大学で150万ドルの予算をかけて行われた大規模研究があり、その中には「因果関係がある!」と主張した様々な論文の検証も含まれていましたが、それらの論文は全て妥当性を否定されています。研究全体の結論としては「少なくとも、因果関係があるとは言えない。むしろ抑止的に機能している面すらある」というものでした。
前回も書きましたが、この手のゲーム危険論が繰り返し繰り返しメディアに登場するのは、「ウケるから」、つまり不安に駆られた皆さんがそういう情報を「見るから」です。重要だからでも、事実だからでもありません。

不安を煽る情報と、そうでない情報では、確実に前者がビューを稼ぐことができます。それがわかっているので、収益を意識するメディアは必然的に前者をばらまくことになります。他人の不安こそが彼らの「飯の種」なのですから。
銃や剣を構えて、画面上に現れるモンスターや人を、撃ちまくる、斬りまくる、
こんなゲームに熱中している姿を見て不安になる気持ちはわかります。

が、それを煽って利用しようとする情報に踊らされないことが肝心です。

まぁ、そもそも、ハーバードでの研究結果など持ち出すまでもなく、これだけゲームが普及して、多くの、というか大半の子ども達がリアルな暴力描写のゲームに日常的に触れて過ごし、ゲームで遊ぶ人々の平均年齢が40代に達した現在、もしも、ゲームと暴力犯罪に因果関係なんてものが存在していたら、とっくに我々の社会は崩壊しています。

あまり知られていませんが、1983年のファミリーコンピューター発売以後、今日に至るまで、少年凶悪犯罪(殺人・強姦など)の件数が全体としては一貫して顕著な低下傾向にあることも、ぜひ知っておいていただきたい情報です。

(短期的には、ググーッと上がる時期もあって、そこだけ取り出して利用されるケースも多いです。絶対わかっててやってるだろ!と突っ込みたくなる)

とはいえ、感情とは厄介なもの。不安を煽る情報に触れてしまえば、煽られないようにコントロールすることは困難かもしれません。

ですから、一番手っ取り早いのはおそらく、テレビを見る時間、ネットをうろつく時間を、「大人が」減らし、いい加減な情報に出来るだけ触れないようにすることです。

えー、今から、とても失礼なことを言います。
でも、とてもとても大事なことなので、やっぱり書きます。
僕が嫌われることになっても仕方ない、でも、できれば怒らないで聞いてください;;

そのような情報を鵜呑みにして不安に駆られるということ自体が、大変失礼ながら、あなた自身のメディア・リテラシーの低さを示していると言えるのです。

そのツケを、大事なお子さんに回してしまわないためにも、それを自覚した上で、情報に接する、あるいは触れない、ようにしましょう。

・不安を煽る見出しを発見する
・大事な情報だと思って読む(観る)
・不安に駆られて精神が不安定に
・家族にその悪影響が及ぶ一方で、何も解決しない

こうなるくらいなら、いっそ全く情報に触れないほうが絶対にマシですよね。
せめて2番目を「読まない(観ない)」にできれば随分違います。

無駄に不安にならないこと、そんな不安に子ども(家族)を巻き込まないこと。
あれ、今日も結論は同じ、ということになりました(笑)

次回は、ゲームへの執着(内容そのものでなく)がもたらす問題行動、に触れたいと思います。

【子どもとゲームで悩んだら考えてみてほしいこと:その2】

池田です。子どもとゲームで悩むお母さん(お父さん)がラクになる話を、と思って書き始めましたが、2回目にして早速、あまりラクにならない話かも・・・。でも、最終的にラクになるためのお話なんでご容赦を。

ゲームに関する一番の問題は何でしょう?それをきちんと知っておきましょう

子どもとゲームで悩むお母さんからよく聞く不安・問題といえば、

(1)人格形成上の悪影響からの非行・犯罪
(2)過度の執着からの問題行動
(3)長時間プレイからの生活の乱れ

このあたりがベスト3というところだと思います。
そのままメディアでよくみる内容・順番なのですが、
意図的なのかどうか、このリストからは最も重要かつ深刻なものが抜けおちています。

それは、

ゲームを挟んで対立することによる親子関係の悪化

です。

(1)-(3)に対する不安が、感情的な言葉のやり取りを生み、
感情的な言葉のやり取りが親子関係の悪化を招き、日々の生活に影を落とし、
結果的に、(1)-(3)の問題を生じやすく、かつ、解消しにくくさえしてしまいます。

不安→対立→状況悪化→不安悪化→対立悪化→状況さらに悪化

こんな最悪のループに陥らないために、
お子さんとゲームについて、不安や悩みを抱えていればこそ、
その生の感情をお子さんにぶつけることをこそ、まずやめなければならないのです。

メディアを通じて、(1)-(3)に関する情報を繰り返し聞かされるうちに、
それらの情報が重要かつ信ぴょう性の高いものだと錯覚してしまいやすいのですが、
メディアがそれらのネタを繰り返し使うのは、重要だから、ではありません。
単にそれが手堅くウケる(多くの人の注目を集めやすい)ネタだからでしかありません。

ウケ狙いの煽り情報に踊らされてはいけません。

あなたとお子さんが、ゲームを挟んで対立関係にある限り、
あなたの不安や悩みは、悪化こそすれ、解決することはないのです。

その意味では、

大人が情報に振り回されてしまうことこそが一番の問題

だともいえます。

ですから、ゲームに関して、不安や悩みを抱えた時、
まずするべきことは、メディアの煽りに振り回されないように注意しつつ、
親子関係を良好に保ち、あなたの言葉がきちんとお子さんに届く状況を作っていくことです。

「あなたのためを思って…」と言いながら、自分の不安をぶつけるのではなく、

お子さんのために、あなた自身のために、まずは目の前の不安に耐える覚悟をしなければなりません。

その上で、振り回されないだけの知識、良好な関係を保ちつつ、状況を良くしていくための技術・態度・姿勢を身につけねばなりません。

知るべきこと、学ぶべきことはいろいろあります。
少しずつ考えていきましょう。

今回は、やや前回に似た内容になりましたが、一番大事なところなので。

次は、(1)(2)(3)についてもう少し掘り下げて考え、問題を明確化して絞り込んでいきたいと思います。

【子どもとゲームで悩んだら考えてみてほしいこと:その1】

池田です。最近改めて、お母さんたちゲームのことで悩んでるなー、と思ったので、僕の経験や知識の範囲からですが、少しお話ししてみようと思います。出来るだけ読んでくれた方がラクになる内容にしたいなと思います。

それでは早速始めます。

ゲームはお子さんの「宝物」です。大事に扱いましょう

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あなたにとってのゲームは「悪」かもしれません。「敵」あるいは「毒」かもしれません。でも、ゲーム好きな子ども達にとって、ゲームは「大切な宝物」です。

自分が大切にしている宝物、その宝物の悪口ばかりを言う人、それを大切にしている自分のことまで悪く言う人、そんな人の話すことを誰が聞く気になるでしょうか?

例えば、スポーツ等に打ち込む我が子に、その競技の悪口ばかり言ったり、没頭する我が子に暇さえあれば罵声を投げかけたり、そんな親は普通いません。

が、対象がゲームとなると、なぜか皆さん言いたい放題大暴れ。もはやコワイ人です。

スポーツには打ち込む価値があるんだっ!ゲームなんかと違って!!ですか?

そのへんはまた改めて検討するとして、今はそこは問題ではありません。

我が子の「大切なもの」を、ひとまずきちんと評価しようとしてみる。
そこから始めてみませんか?という提案です。

ゲーム好きな子どもと、ゲーム嫌いな親、両者のコミュニケーションは、
もはや完全なる「異文化コミュニケーション」いや「異星」間かも(笑)

全ては、相手の「文化」を認めるところから、そこからしか道は開けないのであります。

勉強、やる気、ゲームに関する論文

論文イメージ

池田が2015年度に大阪府松原市で行った実践に関する事柄を中心にまとめた、勉強、やる気、ゲームに関する論文が「奈良学園大学紀要第五集」に掲載されました。

学習意欲を「引き出す」のではなく、すでに子供たちが持っているはずのソレを「解放」すると言う視点に立った「解放指向アプローチ」に基づく一連の取り組み(実施後アンケートで参加児童の約83%で勉強との関係に前向きな変化が報告されました)と、その背景についてまとめたものです。

結構面白い内容になったと思いますので「やる気」に興味をお持ちの皆さんは是非ご一読ください。ご意見・ご感想などお聞かせ頂ければ幸いです。

論文:勉強とやる気、そしてゲーム

リンク先はPDFファイルです。本文は15000字ほどになりますので、とりあえず要約だけ見ていただいて興味がわいたら続きを読んでいただければと思います。

本文より「要約」のみ抽出

我が国においては、以前より、児童生徒の学習意欲および自己評価の低迷が指摘され、いわゆる「やる気のなさ」が問題視されている。しかし、筆者が複数の小学校で行った児童からの聞き取り結果を、古典的動機づけ理論および近年の無意識研究の成果に照らして鑑みると、彼らの状況は「やる気はある、しかし取り組めない」と評価する方が妥当であると考えられる。そこで、無意識主導の行動決定モデルのもと、意識、無意識両方に働きかけ、児童らが既に持っている学習意欲を抑え込まれた状態から解放し、行動へと繋がりやすくすることを目的に、学習ゲーム体験を軸とした一連のワークショップをデザインし、これを「やる気解放アプローチ」と名付けた。このアプローチを児童(小学4、5年生140人)に試みた結果、アンケートにおいて82.9%の児童に勉強観・自己評価の前向きな変化が見られ、48.6%の児童が、以前よりも勉強を頑張れるようになったと回答した。これらの結果は、やる気解放指向アプローチの有効性、およびその実施のためのツールとしての学習ゲームの有用性を示唆している。

今回は、論文として書いたので、全体に言葉も硬めです。また今後このブログ上などで、もっと平易な表現で分かりやすく書ければと思っています。