速度と到達レベル

子供の学習について「おくれ」の不安は常に保護者に付きまとう所ですが、ある機関の観測では、学習速度と最終的な到達レベルとの間には相関が無いらしいという結果が出ています。

「らしい」レベルの話ではありますが、親の「不安」状態が子供に与える悪影響はどうやら「確実」レベルで判明しております。となれば、「かもしれない」レベルの話(学習速度・進度)に振り回されずに、「確実に悪影響をあたえるほう」(親の不安状態)の対策に、より多くのエネルギーを割くのが吉でありますなぁ^^

空腹の種類

このところ、空腹を感じた時に、それが「身体が栄養を欲している」のか「脳が刺激を欲している」のかを観察してみることにしています。

前者はもちろん本来の意味での空腹です。後者はちょっと怪しい言い回しになってしまっていますが、この1年ほど、脳科学者から医師、哲学者、武道家、お坊さんまで実に広い範囲に渡る方々が、その著作の中で身体と脳の断絶を語っているのを頻繁に眼にします。これを考えてみるうえで分かりやすい対象だと思ったのです。

そう思って自分自身を観察してみると、たしかに「お腹減ったなぁ」と感じているのに、実はお腹の中にはまだ以前に食べたものがたっぷり、という状況が少なからずあります。

ちょっとしたストレスを受けた時などに、なぜか空腹になることも多いのですが、これも「食」という快楽刺激を得ようとする脳の働きで、うっかりこれを満たしてしまうと、実際には満載状態の胃腸が大きな負荷を受けてしまう、それがまたストレスを生み・・・という悪循環に陥りかねません。

しばらく観察しているうちに、「自分の身体ひとつとっても、分かっているようで分かっていないのだなぁ」と、変に感心してしまったりします。

無駄食いが減ると眠くなるのも避けられるし、ダイエットにもなるかもしれませんね。まぁ、脳の誘いに負けてしまう事がまだ多いのですけども。

 

ツイッターで「学習」「ゲーム」と検索すると?

「学習」と「ゲーム」。このふたつのキーワードには、やはりつねにアンテナを張っていたいので、情報収集の一環として、ツイッターでこの2つのキーワードで検索を掛けています。

色んな情報が入ってきて良いのですが、広告を除くと一番多いのはどんなツイートだと思いますか?

実は、こんな具合です。(文面は池田が再構成)

「あぁ、今日も何時間も『ゲーム』に没頭してしまった・・・。やらないといけないことがあるのに。『学習』しないなぁ、私。」

「(携帯型ゲーム機で)夢中になって『ゲーム』してたら、いきなり電池切れでセーブも出来ず・・・。いい加減『学習』しろ、自分。」

困った事に、学習と「しない」がセットになってしまっています(笑)まぁ、気持ちはよーく分かりますが。

これを、「またこんなに『勉強』しちゃった・・・」「夢中になって『勉強』していたら・・・」に置き換えること、可能なはずなんですよね。精進せねば。

桃山学院高校で「ゆるたん」に関するヒアリングを行いました(2)

協力してくれたのは男子生徒3名。
貴重な(?)自習の時間を割いて参加してくれました。

※ちゃんと先生の許可を得てのことですし、学生時代の私なら、「ラッキー!」という感じですが、何でも自分基準で考えてはいけませんね(笑)

最初はやはり、ややぎこちなく始まりましたが、次第に場もほぐれて、いろんな意見を聞くことができました。

今回大きな発見だったのは、コンテンツそのものよりも、紹介や説明の仕方に起因すると思われる不満や利用機会の喪失が、多いのではないかということが示唆されたことです。

人的時間的に余裕のないなかで、ついつい適当になりがちな部分ですが、何ごとも「つめ」が甘いとダメだということですね。

この日は、パートナーの吉川先生の他、国語科の先生おふたりとも、直接話ができました。おふたりも興味大のご様子で、協力して取り組んでくださるとのことでした。

コンビからチームへ・・・期待が膨らみます^^

桃山学院高校で「ゆるたん」に関するヒアリングを行いました。

桃山学院高校で「ゆるたん」に関するヒアリングを行いました。

昨年の春から取り組みをはじめた、桃山学院高校での古文単語学習ゲーム「ゆるたん」(九月にはNHK ニュースでも取り上げられました)に関するヒアリングを行いました。

アンケート調査などは以前にも行っていましたが、高校生と直接面談で意見を聞くのはこれがはじめて。軽く緊張しながらの訪問となりました。

(2)へ続く。

海外シリアスゲーム情報

大学での研究で市販のゲーム情報ではありませんが、行動改善を目的としたゲームに関する研究成果が発表されています。

肥満傾向の子供の野菜・果物摂取量がゲームで増加(リンク先は英語)

肥満傾向にある10歳と12歳の子供133人を対象に、以下の2グループに分けて調査が行われました。

グループ1:行動改善を目的としてデザインされた2種類の(大作)ゲームに取り組ませた

グループ2:ウェブサイトで情報をあたえて質疑応答したグループ(ウェブサイト上にもゲームが置かれていたようですが詳細不明。上記2種類のゲームとは別のものと思われます。)

結果、取り組み後の1グループでは、2グループと比べて野菜・果物の摂取量が2/3増加したということでした。

ということは、「勉強って大事だよ」「勉強は楽しいよ」というメッセージをちゃんと送れるゲームを作れば、やる気アップもできる、ということになるのかな。興味深いですね。実験条件やゲームの内容などもっと詳しく調べてみたい案件です。

「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」読了

本書ではいわゆる「自己啓発イデオロギー」に対して「自己啓発で能力は向上しない」というなかなか思い切った断定を下し、反論を展開しています。

人は常に努力によって能力を向上させ続けなかればならず、それによってのみ満足のいく仕事や生活を獲得し得るという、自己啓発イデオロギーが人を決定的に傷つけ、追い込む可能性のある危険物であることは、僕も以前から感じていました。

各自が自己の興味・目的・信条に基いて、より良い存在になるべく努力するというのは、もちろんとても良いことです。ただし、これがイデオロギー化すると、がんばった結果達成できなかった人、がんばることが出来なかった人が必要以上のストレスにさらされる社会となってしまいます。これが怖い。

「上を目指すこと」は肯定・賞賛されて良いが、同じ強度で「目指さないこと」が否定されるのはいけない。

「勉強嫌いの子」はホントに「勉強が」嫌いなのか?

計算プリント一枚の宿題に取り組めず、泣いて嫌がる子に、学習ゲーム(算数ゲーム)をすすめてみると、笑ったりくやしがったりしながら、プリントで課されていたものよりもはるかに大量の計算問題に集中して取り組む。

つまり、この子を泣くほど苦しめていたのは、「算数の勉強」ではなくプリントという「形式」だったのだ。

彼は多分学校では「算数嫌い」あるいは「勉強嫌い」と認識されてしまうだろう。「嫌い」じゃなくて「退屈すぎて耐えられない」なのに。大人が勝手に「認定」してしまっている「勉強嫌いな子」が一体どれほどいることだろう。

きっかけが無ければ親ですら「この子は「勉強」が嫌いなんだ」と思い込んでしまうかもしれない。 

新しい知識を覚えること、新しい技術を身につけること、これは子供だろうが大人だろうが誰にとっても大きな喜びとなるものです。しかし悲しいことにその過程が往々にしてえらくつまらない。それはその作業が「刺激」に乏しいから。

人間は一旦ある強さの刺激になれてしまうと、おなじ刺激には「退屈」するように出来ています。そして、現在子供である世代は、現在親である世代よりも圧倒的に強く、かつ大量の「刺激」にさらされて育っています。

つまり、現在の子供にとっての勉強(ここではプリント等)は、親世代が子供の時に感じていたよりも「はるかに退屈」なのです。

僕は退屈な勉強が大嫌いな少年だったので、それよりも「もっともっと退屈」なことを強要されるなんて、想像しただけでも気が滅入る。この辺の想像力が働かず、自らの体験からのみ類推して「イヤでも、つまらなくてもやるのが勉強なんだ」とか平気でいう大人が多すぎる。

権威を失ったものをたたき続けてどうするのか

あっというまに11月も終わりを迎えて、明後日からはもう師走。

年末といえば、かつて「~(歌手名)が紅白の出演依頼を拒否」という内容のニュースが大きくとり上げられ盛り上がった時期がありました。今は、あまりそういうことは大きな話題にはなりません。あえてそれをアピールする芸能人もいなくなったように思います。

かつて、紅白歌合戦が「視聴者みんながみる」「歌手なら誰もが出たい」という存在だったからこそ、それに「反抗してみせる」ことに価値があった、カッコよかったのです。それによって励まされる人が沢山いました。

さて、教育・学校・先生・勉強。これらはとうに権威を失いました。現在は皆でよってたかってボコボコにされている状態。にも関わらず、まだこれらへの「反抗」を得意げに示すタレント(またはそれに準ずる有名人)が全然減らないように見える。これは相当カッコ悪い行為だと、僕には思えるのだけど。現状でもまだ叩かれ足りない、落ち足りないということなのだろうか。

故・忌野清志郎さんだったらあるいはボチボチ「勉強しようぜ~」と言ってくれたかもしれない。ダメかな。

いい学校にいって、いい会社にはいっても、それで幸せになれる訳じゃない、なんて話は今更でも、自分で必要だと思うことを学んだり・考えたりするために必要な「素材」はやっぱり勉強して身につけておかないといけないもの。「叩き」が一般化しすぎると、広い意味での「勉強」「学ぶこと」全般を否定する雰囲気がうまれてしまう。