大人社会への小窓(取り次ぎ役)としての勉強

特別なギフテッドである場合を除き、子ども達にとって、大人一般から高評価を受け特別に扱ってもらうための殆ど唯一の方法が「勉強」です。親や先生がどれだけ「良いところを見つけて伸ばす」態度を示そうが、大人社会一般の通念として、そのようであるということを、子供たちは敏感に感じ取ってしまいます。他のあらゆる尺度での評価に、カッコつきで(勉強はできないけど)(勉強ができる上に)などがイチイチ付着しているのが透けてしまうのです。

そして、勉強に向いた、あるいは発達的に先行している子ども達の一部が、評価と高待遇を受け取り、それ以外の多数の子ども達が、自分達は評価されないのだという事を知ることに、というより体感することになる訳ですが、この構造は何かに似ていますね。「取次ぎ役の権威肥大」です。

歴史上、権力者の側近、ことに本来自身は権力を持たないはずの「取り次ぎ役」の権威が異常に肥大化した例は枚挙に暇がありません。彼らを通さなければ何者も権力にアクセス出来ない状況が、本来持ちえ得ないはずのものを与えてしまうのです。

子ども達にとっては勉強が、大人社会への取り次ぎ役であるという訳です。勉強に気に入られるか上手く取り入ったもの達だけが、大人社会の好意を得て優遇されることになります。他の道が完全に存在しないわけではありませんが、極めて高難度かつハイリスク。古代に例えるなら、剣闘場の英雄となって謁見をゆるされるようなレベルの話です。

もちろん、好意と高待遇を獲得した子ども達にとっても問題は容易ではありません。機嫌を損ねることなく関係を維持していかねばならないのですから。

かくして「勉強様」の権威は肥大化し、勉強はモンスター化します。子ども達にはコレをねじ伏せるだけの力をつけるか、上目遣いで付き合っていくか、逃避するか、殆どこの3択しか与えられません。そして逃避を選んだ場合、殆どは完遂されることなく捕縛されるに至ります。

(大人社会の縮図として現れる子ども社会においても、勉強様の権威は、歪んだ形ながら浸透しており、この事が逃避の完遂をより困難にします。)

我が子をすすんで「取り次ぎ役」の機嫌とり名人、あるいはその虜囚に育てたいと思っている人は、普通あまりいないでしょうけれど、深く考えずに「勉強は大事」と連呼すること(そう感じさせる態度をとること)、あるいはそのような情報源に子どもを頻繁に曝すことは、つまりそういうことなのです。

モンスターと戦うものには、何より「敵を知る」ことこそが重要。子どもを応援しているつもりが、いつのまにかモンスターの味方をしてしまっていた、とならないよう注意したいものです。

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