空腹の種類

このところ、空腹を感じた時に、それが「身体が栄養を欲している」のか「脳が刺激を欲している」のかを観察してみることにしています。

前者はもちろん本来の意味での空腹です。後者はちょっと怪しい言い回しになってしまっていますが、この1年ほど、脳科学者から医師、哲学者、武道家、お坊さんまで実に広い範囲に渡る方々が、その著作の中で身体と脳の断絶を語っているのを頻繁に眼にします。これを考えてみるうえで分かりやすい対象だと思ったのです。

そう思って自分自身を観察してみると、たしかに「お腹減ったなぁ」と感じているのに、実はお腹の中にはまだ以前に食べたものがたっぷり、という状況が少なからずあります。

ちょっとしたストレスを受けた時などに、なぜか空腹になることも多いのですが、これも「食」という快楽刺激を得ようとする脳の働きで、うっかりこれを満たしてしまうと、実際には満載状態の胃腸が大きな負荷を受けてしまう、それがまたストレスを生み・・・という悪循環に陥りかねません。

しばらく観察しているうちに、「自分の身体ひとつとっても、分かっているようで分かっていないのだなぁ」と、変に感心してしまったりします。

無駄食いが減ると眠くなるのも避けられるし、ダイエットにもなるかもしれませんね。まぁ、脳の誘いに負けてしまう事がまだ多いのですけども。

 

ツイッターで「学習」「ゲーム」と検索すると?

「学習」と「ゲーム」。このふたつのキーワードには、やはりつねにアンテナを張っていたいので、情報収集の一環として、ツイッターでこの2つのキーワードで検索を掛けています。

色んな情報が入ってきて良いのですが、広告を除くと一番多いのはどんなツイートだと思いますか?

実は、こんな具合です。(文面は池田が再構成)

「あぁ、今日も何時間も『ゲーム』に没頭してしまった・・・。やらないといけないことがあるのに。『学習』しないなぁ、私。」

「(携帯型ゲーム機で)夢中になって『ゲーム』してたら、いきなり電池切れでセーブも出来ず・・・。いい加減『学習』しろ、自分。」

困った事に、学習と「しない」がセットになってしまっています(笑)まぁ、気持ちはよーく分かりますが。

これを、「またこんなに『勉強』しちゃった・・・」「夢中になって『勉強』していたら・・・」に置き換えること、可能なはずなんですよね。精進せねば。

「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」読了

本書ではいわゆる「自己啓発イデオロギー」に対して「自己啓発で能力は向上しない」というなかなか思い切った断定を下し、反論を展開しています。

人は常に努力によって能力を向上させ続けなかればならず、それによってのみ満足のいく仕事や生活を獲得し得るという、自己啓発イデオロギーが人を決定的に傷つけ、追い込む可能性のある危険物であることは、僕も以前から感じていました。

各自が自己の興味・目的・信条に基いて、より良い存在になるべく努力するというのは、もちろんとても良いことです。ただし、これがイデオロギー化すると、がんばった結果達成できなかった人、がんばることが出来なかった人が必要以上のストレスにさらされる社会となってしまいます。これが怖い。

「上を目指すこと」は肯定・賞賛されて良いが、同じ強度で「目指さないこと」が否定されるのはいけない。

「勉強嫌いの子」はホントに「勉強が」嫌いなのか?

計算プリント一枚の宿題に取り組めず、泣いて嫌がる子に、学習ゲーム(算数ゲーム)をすすめてみると、笑ったりくやしがったりしながら、プリントで課されていたものよりもはるかに大量の計算問題に集中して取り組む。

つまり、この子を泣くほど苦しめていたのは、「算数の勉強」ではなくプリントという「形式」だったのだ。

彼は多分学校では「算数嫌い」あるいは「勉強嫌い」と認識されてしまうだろう。「嫌い」じゃなくて「退屈すぎて耐えられない」なのに。大人が勝手に「認定」してしまっている「勉強嫌いな子」が一体どれほどいることだろう。

きっかけが無ければ親ですら「この子は「勉強」が嫌いなんだ」と思い込んでしまうかもしれない。 

新しい知識を覚えること、新しい技術を身につけること、これは子供だろうが大人だろうが誰にとっても大きな喜びとなるものです。しかし悲しいことにその過程が往々にしてえらくつまらない。それはその作業が「刺激」に乏しいから。

人間は一旦ある強さの刺激になれてしまうと、おなじ刺激には「退屈」するように出来ています。そして、現在子供である世代は、現在親である世代よりも圧倒的に強く、かつ大量の「刺激」にさらされて育っています。

つまり、現在の子供にとっての勉強(ここではプリント等)は、親世代が子供の時に感じていたよりも「はるかに退屈」なのです。

僕は退屈な勉強が大嫌いな少年だったので、それよりも「もっともっと退屈」なことを強要されるなんて、想像しただけでも気が滅入る。この辺の想像力が働かず、自らの体験からのみ類推して「イヤでも、つまらなくてもやるのが勉強なんだ」とか平気でいう大人が多すぎる。

権威を失ったものをたたき続けてどうするのか

あっというまに11月も終わりを迎えて、明後日からはもう師走。

年末といえば、かつて「~(歌手名)が紅白の出演依頼を拒否」という内容のニュースが大きくとり上げられ盛り上がった時期がありました。今は、あまりそういうことは大きな話題にはなりません。あえてそれをアピールする芸能人もいなくなったように思います。

かつて、紅白歌合戦が「視聴者みんながみる」「歌手なら誰もが出たい」という存在だったからこそ、それに「反抗してみせる」ことに価値があった、カッコよかったのです。それによって励まされる人が沢山いました。

さて、教育・学校・先生・勉強。これらはとうに権威を失いました。現在は皆でよってたかってボコボコにされている状態。にも関わらず、まだこれらへの「反抗」を得意げに示すタレント(またはそれに準ずる有名人)が全然減らないように見える。これは相当カッコ悪い行為だと、僕には思えるのだけど。現状でもまだ叩かれ足りない、落ち足りないということなのだろうか。

故・忌野清志郎さんだったらあるいはボチボチ「勉強しようぜ~」と言ってくれたかもしれない。ダメかな。

いい学校にいって、いい会社にはいっても、それで幸せになれる訳じゃない、なんて話は今更でも、自分で必要だと思うことを学んだり・考えたりするために必要な「素材」はやっぱり勉強して身につけておかないといけないもの。「叩き」が一般化しすぎると、広い意味での「勉強」「学ぶこと」全般を否定する雰囲気がうまれてしまう。

明るい教育ニュース発信プロジェクトはじめます

教育に限ったことではありませんが、日々目に付くのは、暗いニュースばかり。暗いニュースに全く価値がない、とは言いませんが、暗いニュースばかりに取り巻かれて過ごすのは、愚痴ばかりこぼしている人に囲まれて過ごすのと同様、およそ心にも身体にも良いことはありません。

こう暗いニュースばかり見聞きしていると、もともと悲観的でなかった人までいつのまにかそういう気分になってしまって、その気分がいつのまにか「常識」化してしまう。この流れは何とかしないといけない。

例えば、先生の不祥事ニュースばかりみていると、先生全般がダメであるかのような錯覚に陥りますが、当然そんなはずはなくて、全国には、いや、皆さんのまわりには、すばらしい先生が沢山います。しかし、すばらしい先生はなかなかニュースにはならない。なっても稀すぎて、逆に滅多にいない特別な存在のように印象づけられてしまったりします。

そこで、ささやかな抵抗として、明るい教育ニュースを積極的に発信していく活動を始めたいと考えています。やっと具体的な動きが始まりつつあるという段階ですが、何とか頑張って進めて行きたいと思います。またこちらで報告します。

所さんの目がテンにて

大阪では8日遅れで放送なので、関東地方などでは既にしばらく前の話題かもしれませんが、昨日の「所さんの目がテン」でゲーム特集が組まれ、その中で、学習ゲームに関する話題が登場しました。

ドイツ語を初めて学ぶ学生2グループに、ドイツ語の単語を勉強してもらうのですが、一方のグループはベテラン先生の授業で、もう一方のグループはニンテンドーDSを使った学習ゲームで独習してもらい、終了後に「抜き打ちテスト」を実施。結果は・・・僕にとっては全くの予想通りでしたが、ゲーム独習グループの圧勝でした。(30点満点のテストで平均点で8点差)。

これは「くり返し回数」がものをいう暗記課題と、学習方法の相性を考えれば全く当然の結果です。番組内では「自ら操作しなければ全く先にすすまないゲーム」と「多少ぼんやりしていても進行していく授業」の違いが結果に影響していると指摘されており、これもまたもっともだと思います。

ただ、誤解があってはいけないと思うのは、これによって授業と学習ゲームの間で「優劣」が判定されたと考えてはいけないということです。

番組内の調査では「授業+ゲーム独習」というグループが存在しませんでしたが、このグループがあれば間違いなくこれが最も結果をだしたはずで、両者はセットで最大の効果をもたらすはずなのです。興味を引き出し・理解へ導くことに長けた授業と、主体的取り組みの促進と関心・集中の持続(単純作業に伴う苦痛の軽減)に長けたゲームは、互いの長所をいかしあえる名コンビになれるはずだからです。

今回のような比較のされかたでは、結局両者は「敵対」する関係と印象されてしまいそうなのがとても残念でした。

ゲーゴーの何が悪い!

ゲームで子供達に勉強を、って話をすると、結構な確率で「それはゲーゴー(迎合)だ!勉強はつらいのを頑張るから意味があるんだ!」と返ってきます。(特に年配の人に多いですが、意外と若い人でも)

が、問い返してみると、その発言に「気分」以外の中身が入っていたためしがありません。それだけにタチが悪いのですが…。エライ人に限ってそうなんだよなぁ。

「つらい経験」「苦しい体験」それ自体は、決して人間を成長させません。それらを「乗り越えた」経験の蓄積が人に自信と成長をもたらし、「乗り越えられなかった」経験の蓄積は自信の喪失と萎縮をもたらします。

自己評価の高い人(自信のある人)は、成長後に思わぬ壁にぶつかっても、さらに言えばその壁をなかなか乗り越えられない経験をしても、簡単には折れませんが、逆の場合は壁を見た時点であきらめてしまうように、下手をすれば壁の見える所にまで近づこうとさえしなくなります。

ゲームの形をとろうがとるまいが、そこで行われるのは学習です。課題は課題、「壁」であることには違いありません。ただ、その壁には「とりあえずチャレンジしてみようぜ!」と書いてあります。そして乗り越えた時には、壁自身が「やった!すげぇ!やるなぁお前!!」とほめてくれます。その違いです。

エライひとに限って・・・と書きましたが、それも当然のことで、エライ人はなんだかんだと「乗り越えた」経験をつむことができた人、それによって「高い自己評価」を得ることが出来た人だからです。そういう人の目には「つらいの」は、はなから「乗り越えられる」ことを前提としたものとしてうつっています。

繰り返しますが、「つらい経験」それ自体は何のプラス要素も持っていません。しかし、「たのしい経験」にはそれ自体にプラスの価値があります。(これについてはまた改めて。)

ゲーゴーの何が悪い!

1歳7ヶ月の娘、月例の割にはかなりよくおしゃべりするのですが、その割りに「あいさつ」が出来ない。新しい言葉はどんどん覚えるし、「おやくそく」みたいなやり取りも覚えているのに、どうしてかな、と思っていたのですが、さっき急にはたと思い当たりました。

僕と嫁さんの間にちゃんとした挨拶のやりとりが不足しているから

ないわけではないのです。会話もむしろ多すぎるぐらい。(娘もそれをみておしゃべりに育ってるのでしょう。)でも、考えてみたら例えば「おはよう」が不足している。ムニャムニャっと一日が始まってしまってるかも。家庭内で「こんにちは」「こんばんは」は出てこないので、「おはよう」が肝心なはず。試してみよう。気付きを与えてくれてありがとう。

90万分のN人

学校の先生って、なんやかんやと合計すると90万人ぐらいもいてはるそうで。90万人というと人口少なめの県が老若男女「全員先生」っていう状態ですね。

何が言いたいのかというと、連日先生の不祥事(?)がメディアで面白おかしくとり上げられていますが、それで「教師はクズだらけ」みたいな思い込みをしちゃう人が多いのはやはり違うなと。もちろん無視していいとは言いませんが、騒ぐことそのものがもたらす害があまりに大きいと思います。

未来のため、子供たちのために、教育が重要だと思うなら、おもしろおかしく煽るような報道に安易にのっからないこともまた、とても重要で価値のある「協力」であると思います。