wired日本版のワザとくさい誤訳(?)がちょこちょこ気になる件

http://wired.jp/2013/07/25/to-war-is-human-perhaps-not/

wired日本版のワザとくさい誤訳(?)がちょこちょこ気になる。
お友達が紹介してらしたのでさっき読んだこの記事もそう。はじめ読み手に「暴力は人間の本質でなかった」という内容だと思わせるような書き方をしておいて、読み進むとぜんぜん違う記事なのです。

元記事では、
Sure, humans are violent, the researchers say ? but…
とはっきり人間がviolentだと前置きした上で、でも、集団間での殺人(戦争的なもの)は、(かつての狩猟採集社会で)人類が犯した殺人全体の中での、ごく少数を占めるに過ぎなかった、そこが誤解されて戦争が人間の本質に根ざすものであるかのように思われている、ということを語っているのに、その前提部分が日本語訳からは意図的っぽく省かれていたり、拡大解釈を招くような表現や省略があったりしています。

例えば冒頭「人間の中にある好戦的な気質が、実は比較的あたらしいものだとする・・・」、これ「好戦的」を「戦争(個人間でなく集団間の殺し合い)を好む傾向」と解釈しないと本来の意味からズレてしまうけれど、普通もっと広い意味でとらえてますよね。こういうのがちょこちょこある。

もちろん僕も、暴力が人間の本質ではなかった!と言ってもらえる方が嬉しいし、そう思いたいので、そういう記事なのかと期待した訳です。でも違った。違うのにそう感じさせるように書かれてた(と思う)。

いい方向にであれ、悪い方向にであれ、こういうのはホントやめてほしい。

論文が指摘していることもとても重要なことなのに、記事の冒頭で変に煽られているせいでなんだか読後感が微妙に・・・。

JTB社員のバス手配ミス隠蔽について考えていたら結局勉強の話に・・・

こんにちは、まなゲーらんど管理者の池田です。

JTB社員のバス手配ミス隠蔽が話題ですが、案外他人事ではありませんよね。

生徒を装った自殺をほのめかす手紙で、遠足を延期させようという「手段」が劇場的で大掛かりなため話題として盛り上がっているのだと思いますが、目的や行為の本質に目を向ければ、ミスをごまかそうとした、というもので極めて身近なものです。ウソをついて失敗をごまかそうとした(実際にごまかした)経験の無い人などおよそいないでしょうから。かくいう私も覚えがあり過ぎてとてもいちいち列挙していられないほどです。

忘れ物や待ち合わせへの僅かな遅刻から、重大な仕事上のミスまで、実にさまざまな失敗を私たちは日常的に「誤魔化して」すごしています。

書店でビジネスの心理に関するものを探してもいいですし、ネットで検索してもいいのですが、「失敗は素直にあやまるよりも誤魔化した方が得!」と言い切ってしまっているものも少なくありません。

わざわざ書き手にいわれなくても、失敗をしたときに「誤魔化したい」という気持ちが沸くのが、ほぼ習慣化してしまっているというひとが多いのではないでしょうか(実際に誤魔化すかどうかは別としてそういう気持ちが沸く、ということです)。

そういう気持ちは、いつどこからやってきて、いかにして習慣化するのでしょうか。
はじめはやはり親との関係における不安でしょう。(評価されたい(怒られたくない)など)。
そして、周囲の大人(先生など)や仲間との関係へと広がりつつ軸を遷していきます。(認められたい(侮られたくない・怒られたくない))

さて、学齢に達した子どもにとって、もっとも頻繁にこの不安にさらされる機会を提供してくれるもののひとつが、やはり「勉強」なのではないでしょうか。(褒められたくてウソをつく、ごまかす、というのも多々あります。これも同じと考えます)

勉強の嫌い・苦手な子ども達は「勉強」と聞いただけで身構えます。
(「勉強なんて意味ない」というのも防衛反応です。)
なぜこうなるのかといえば、彼らが日常的にこの「勉強」とセットで「受けたくない評価」を受けているからです。
(「勉強なんて意味ない」だから「出来ない僕は駄目な子ではない」)
同様に、宿題が出来てない子は、「宿題」と言うだけで、何もまだ聞いていないのに宿題が出来なかった「理由」を聞かせてくれます。この反応のすばやさ、理由の多様さともっともらしさ、理由の上への「いなおり」度合いは、年齢があがるごとに強まっていきます。当然です。長年にわたって「鍛えられて」いるのですから。

こうやって鍛えられ、「幸いにして」ミス少なく(露呈するミスが少なく)成長した子どもが、社会に出てある日「とんでもない」(と本人が思う)ミスをしてしまったとき、どれほど「おかしな」誤魔化し方を思いついたとしても、さらには、実行にうつしてしまったとしても、それは一向に不思議なことではありません。

私たち大人が、子ども達に勉強を「課す」ことによって、彼らの何を育て、何を鍛えているのか、このところを、よくよく考えなければなりません。

勉強は単なるスキルです。たかがスキルを鍛えるために(重要なスキルであることは認めるとしても)、私たちは何を代償として支払っているのか、彼ら彼女らに支払わせているのか、その視点が常に必要だと思います。

僕が勉強ゲームを扱うのは、勉強(ことに習得・ドリルに相当する部分)なんてその程度(遊び感覚で身に着ける程度の)ものだと考えているからでもあります。深刻にやるようなものではありません。

罰金15ドル

アメリカの話ですが、テキサス州では、子どもが学校で携帯電話をカバンなどから取り出すたびに罰金15ドルなんだそうです。

僕が中学生の頃、月のお小遣いが大体そのくらいだったので(本代を除く)、1度の摘発でその月はスッカラカンです・・・。とりあえず「持って行かない」以外に対応のしようがないですね。

いや、学校で携帯電話使っちゃダメだよという指導自体は理解できるのですが、それを行政が刑罰つきで強制するというのはまた全然次元の違う話です。しかも「取り出したら」ですからね。行政が市民を、子どもを、どのように捉えているのかと言うのが端的に現れてしまっているのではないでしょうか。実際にはほぼ運用されていないトンデモ法の類なのかもしれませんが、議会がそれを成立させたという時点でもうね。

 

海外シリアスゲーム情報

大学での研究で市販のゲーム情報ではありませんが、行動改善を目的としたゲームに関する研究成果が発表されています。

肥満傾向の子供の野菜・果物摂取量がゲームで増加(リンク先は英語)

肥満傾向にある10歳と12歳の子供133人を対象に、以下の2グループに分けて調査が行われました。

グループ1:行動改善を目的としてデザインされた2種類の(大作)ゲームに取り組ませた

グループ2:ウェブサイトで情報をあたえて質疑応答したグループ(ウェブサイト上にもゲームが置かれていたようですが詳細不明。上記2種類のゲームとは別のものと思われます。)

結果、取り組み後の1グループでは、2グループと比べて野菜・果物の摂取量が2/3増加したということでした。

ということは、「勉強って大事だよ」「勉強は楽しいよ」というメッセージをちゃんと送れるゲームを作れば、やる気アップもできる、ということになるのかな。興味深いですね。実験条件やゲームの内容などもっと詳しく調べてみたい案件です。

所さんの目がテンにて

大阪では8日遅れで放送なので、関東地方などでは既にしばらく前の話題かもしれませんが、昨日の「所さんの目がテン」でゲーム特集が組まれ、その中で、学習ゲームに関する話題が登場しました。

ドイツ語を初めて学ぶ学生2グループに、ドイツ語の単語を勉強してもらうのですが、一方のグループはベテラン先生の授業で、もう一方のグループはニンテンドーDSを使った学習ゲームで独習してもらい、終了後に「抜き打ちテスト」を実施。結果は・・・僕にとっては全くの予想通りでしたが、ゲーム独習グループの圧勝でした。(30点満点のテストで平均点で8点差)。

これは「くり返し回数」がものをいう暗記課題と、学習方法の相性を考えれば全く当然の結果です。番組内では「自ら操作しなければ全く先にすすまないゲーム」と「多少ぼんやりしていても進行していく授業」の違いが結果に影響していると指摘されており、これもまたもっともだと思います。

ただ、誤解があってはいけないと思うのは、これによって授業と学習ゲームの間で「優劣」が判定されたと考えてはいけないということです。

番組内の調査では「授業+ゲーム独習」というグループが存在しませんでしたが、このグループがあれば間違いなくこれが最も結果をだしたはずで、両者はセットで最大の効果をもたらすはずなのです。興味を引き出し・理解へ導くことに長けた授業と、主体的取り組みの促進と関心・集中の持続(単純作業に伴う苦痛の軽減)に長けたゲームは、互いの長所をいかしあえる名コンビになれるはずだからです。

今回のような比較のされかたでは、結局両者は「敵対」する関係と印象されてしまいそうなのがとても残念でした。

米オバマ政権がゲーム開発支援

日系新聞webより、5月半ば掲載の記事ですが迂闊にも見落としていたので、記録を兼ねて紹介。

「ゲームをはじめとするデジタルコンテンツをエンターテインメントという枠組みではなく、「科学教育」と位置づけている」

「米国がゲーム支援に乗り出すのは、デジタル時代に適合した思考法や学習能力を今の子どもたちから引き出そうという狙い」

「ゲーム企業を直接支援するわけではないが、エンターテインメントにとどまらない新しい市場が誕生していく可能性」

http://www.nikkei.com/tech/personal/article/g=96958A9C93819499E3E6E2E08A8DE3E6E2E7E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;df=2

一貫教育、そうなっちゃうのか

一貫教育、公私立で学力さに苦慮、文科省調査(47ニュースより)

高校入試がないもんで、6年間の間にどんどん学力差がひろがってしまうと。

指導する先生方も大変でしょうが、自分が「落ちこぼれてる」と思いながら同じ環境で6年間過ごすというのも、なかなかハードな生活でしょうな。僕は中学まではまずまず勉強できる子でしたが、高校で進学校へすすんで初っ端のテストから思い切り落ちこぼれてしまったクチです。クラブや友達と過ごす時間は楽しかったので高校生活は結構充実してましたが、何しろ、ほぼ全ての教科で、先生の言ってることが殆ど理解出来ない状態だったので、授業中はかなりツラかったですね。で、当然ながら高校生の生活は大半「授業中」なわけですよ。

ある程度おいてかれてしまうと、そもそも何から手をつけてよいのかが分からなくなりますから、「なんとかしなきゃなー」ぐらいの覚悟では到底のりこえられるハズもなく、日々着々とどこかが蝕まれていく感じになります。これが6年続くというのはやはり。

人が幸福に生きていくうえで「自己評価が高いこと」はとても重要で、特に多感な時期にマイナス評価を受け続けると、他人に評価してもらうことでしか自分の価値を認めることができない状態に陥りやすく「評価してもらえない自分は価値がない」と一旦思い込んでしまうとあとはひたすら悪循環、となりかねません。

とすると、一貫教育においては、より慎重に、より手厚く「落ちこぼれさせないためのケア」を施す必要があることになりますが、一方で出来る子を「より高いところまで」育て上げるのも一貫教育の目的でしょうから、ますます難問化して…うーん大変だ。

ちなみに僕の成績は3年間低空飛行を続けたあと、浪人した1年で一気にあがりました。予備校の授業も、もちろん良かったのでしょうが、一番根っこのところから変わるきっかけとなったのは、地元の小さな予備校に行ってみたら、そこでまた急に「出来る子」として扱われたことだったのだと思います。

水没で移転の小学校、7年で廃校に

<群馬・八ッ場ダム>水没で移転の小学校、7年で廃校に
1月4日2時31分配信 毎日新聞

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080104-00000014-mai-soci

約12億円の損失となるそうです。うち、町の負担分が8億円ということですが、8億といえば、ITメディアの教育利用について全国規模の活動ができる予算です。それを一つの町に集中投下したとしたら・・・相当なことができたと思います。想像レベルの話ですが、基礎学力平均の大幅アップぐらいのことは確実にできたのではないでしょうか。

学習費調査 幼稚園から高校 私立だと1678万円

Yahooニュースより 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071221-00000002-maip-soci
学習費調査 幼稚園から高校 私立だと1678万円
12月21日9時51分配信 毎日新聞

学習費用の2極化は、格差の定着へとつながるといわれますが、私の関わるデジタル・コンテンツの世界でもデジタル・デバイドというITメディアの恩恵を受けられる人とそうでない人の格差をさす用語があります。教育・学習ツールとしてのITメディアの普及・定着は今後急速に進むと予測されますが、この広がりを如何にして可能な限り「遍き」ものとするか、そしてもっとも安価にまたは無料で利用できるものの質的水準を如何に高いところまで引き上げることができるか、というのが、19online.netで私がチャレンジしたいと思っているところです。っと、少々大きなことを言いすぎでしょうか?(苦笑)

ダークヒーローの難しさ(映画にあこがれて中学生が窃盗)

Yahoo Newsより 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071217-00000915-san-soci
オーシャンズになりたくて…中学生4人が窃盗団
12月17日12時28分配信 産経新聞

今回たまたま「オーシャンズ11」だったのであって、あらゆるヒーローにこの難しさが付きまといますね。私のところの学習ゲームですら、以前に「主人公の言葉遣いが悪い」と指摘を受けたことがあります。エンターテイメントとある種の「悪(もしくは不道徳)」は不可分であると思われますので、対策としては別のアプローチで「現実」をしっかり見つめる経験を持たせることしかないと思うのですが、メディアの子供への悪影響をいう人は、往々にして現実を見せたがらない人である傾向があるようにも思います。
もちろん、幼いうちから何でも現実を突きつけよというつもりはありませんが、中学生ぐらいの年齢であれば、「悪」への関心は放っておいても生じるわけですから、バランスよく「現実」をみせていくことを考えねばならないということです。フィクションをまねて「ごっこ」をするなら、そこに本物の犯罪を用いてしまっては「ごっこ」にならないということだけでも気づければ・・・と。