教室はやっぱり戦場だった

唐突ですが、教室ってやっぱり「戦場」なのです!
クラスメイトとの成績争い?受験戦争?ちがいます。
「子ども」と「勉強」との「立場」を巡る戦場です。現在の戦況は圧倒的に勉強優勢。

ウチの○○ちゃんは、勉強頑張ってるし成績もいいから大丈夫?ブブーです。
俺は勉強なんて大っきらいだし、しないから余裕?ブブブブーです。

勉強が出来ようが出来まいが、勉強してようがしてまいが、そんなことは決め手になりません。
問題はどちらがどちらを「支配」しているかなのですから。

どんなに勉強が出来ても、勉強に勉強させられているなら、その子は勉強の「下僕」です。
どんなに勉強ぎらいで、勉強から逃げてても、心のどこかに後ろめたい気持ちがあるなら、その子は勉強の「支配下」にあるのです。

勉強を支配し、自らの下僕として、使役する子は、自分の成長や目標の達成のために、勉強をコキ使います
やってきた勉強が役立たずだと気がついたら、もっと使える召使を探すか、使えるものに鍛えなおします。

お勉強さまの支配下で、ご機嫌を取るために勉強をしていると、お勉強様はその子をかわいがってくれますが、ご機嫌を取ることに失敗すると、あっさり捨てられてしまいます。また、運よく成功し続けても、ある日突然、その庇護下から放り出されることになります。恨み言を述べても「ご主人さま」の耳には届きません。

勉強から逃げている子は、ほとんど全ての場合、内心の後ろめたさを抱えているので、結局逃げ切れません。お勉強さまに逆らった罰として、レッテルやコンプレックスという刺青を罪人よろしく刻み込まれ、自尊心やら夢やら、色々奪われます。口では「関係ない」といっていても心はその支配下から逃れられません。彼らの人生は「お勉強様」がより権威化するための養分として供されるのです。

勉強の支配の及ばない世界で自らを確立し、その支配を振り切ることに成功した子は、勉強に大事なものを奪われず、異なる価値によってたつことができます。勉強の支配下にないのでレッテルを貼られても痛くも痒くもありません。ただし、勉強を使役することによって得られたかもしれない可能性は失われます。

勉強をコキ使う人生、勉強にコキ使われる人生、勉強に食われる人生、勉強と無縁に生きる人生、どれを子ども達に歩ませたいでしょう。
少なくとも2番目と3番目は避けたいところではないでしょうか。

大人がすべきことは、この戦いに子ども達が勝利できるように支援することです。
子ども達が勉強を支配し使役することこそが唯一の勝利であり、学力そのものはその結果の現れ方の一つに過ぎないのです。

とはいえ、勉強が出来ないより、出来た方が、この戦いが有利に進められることも事実です。

支配下におかれた勉強は、常に立場の逆転を目論みつつ、機会さえあれば、自らの主人に「実力」を示すことを要求してきます。これに成功すれば勉強を支配することはより容易になり、失敗するとより困難になります。失敗を繰り返しながら彼を支配下におき続けるには、それだけ強い精神力が要求されます。おや、なんだか「魔物」の話めいてきましたね。

失敗続きによる意気消沈、自信の喪失は、勉強にとって格好の餌となります。これを食べて力を蓄えた勉強は、満を持して、支配関係の逆転に挑むのです。

教室はやっぱり戦場だった。

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